黒白誌掲載記事と較べ、素人講釈で赤字は削除され、[青字]が追加された。
 
 
黒白 第5巻4号(大正10年4月)通巻49号
 
義太夫虎の巻 伊賀越八ツ目切 岡崎雪降の段
 
             胴摺帽人 寄
 
[(六十三) 伊賀越道中双六 八ツ目切 岡崎雪降の段]
 
 此段は、天明四年辰二月、[三年卯の四月(大正十五年を距る百四十四年前)]竹本座にて上場し、作者は近松半二、近松加作である。役場は竹本住太夫であるが、[と思ふ。]伊賀越中の八ケ間敷物である。此住吉屋文蔵([国根]住太夫)と云ふ人が、一生の中には江戸へ来て、志渡寺も語つた、長局も語つた[。]又竹本座にては、島太夫の語つた二十四孝の三段目も此太夫が語つて、評判嘖々たる物であつたが、此竹本座には、岡崎の段程ズバ抜けて豪かつた物は有まいとの事である。[大隅太夫も芝居で四度斗り語り。組太夫のも一度は聞いたが、其外に、]此段は故綾瀬太夫が抜ける程稽古をして、東京で語つて居る時も、帽人[庵主]は誠に贅沢な稽古をした物じやと、感心して聞いて居たが、[其時の]絃は多く豊吉や[、]団八が弾いて居た。[二]人とも天稟の芸の良い[人]ではあつたが、一方太夫の方は、何様芸が極つている。一方絃の方は、芸は良くても極つて居らぬから、紙六七枚語る中には、詰まり引摺らるゝ訳になつて居た。其後[に]大隅太夫が語るのを度々聞いたが、[。]是も良くアレ丈け芸の極りが付いた物であると思[つ]て聞いて居た。其後今の[近来又]三代目越路太夫が語るのを[つたのも]、又度々聞いたが、前の[三]者は岡崎の稽古から、太夫が生れ出て居るから[、]其芸が畏ろしかつたが、越路太夫の方は、越路太夫の芸力から、岡崎が生れ出て居るから、良くは語つて居たが、稽古が手薄いから、畏ろしくはなかつた。先代越路太夫も六十歳から本当に凝つたから[此]三代目も是から此岡崎に凝るか凝らぬかゞ[、]一つの問題である。斯様に歴代の芸人が、丹精を凝らす品物故、生半可な天狗様の、歯の立つ物ではないのである。
[『]既に其夜も、しん〳〵と[』、][『]しん〳〵[』][言つて仕舞つて、]音の遣へる人が滅多にない[。]
[『]遠山寺に告渡る[』、]是までの腹と音遣ひで、八ッ目の位がチヤンと定まつて、聴衆が耳を澄ますやうにならねば、此段は成功六ケ敷のである。
○夫から[『]早九ッのかねてより[』]からの[「]乗変り[」]が其位にならねば出来ぬ[。]
○捕手の間の[「]ノリ[」]止まりと[「][」]の伸縮は[、]天下大隅太夫の右に出る者はあるまいと思ふ。
○幸兵衛の息込み[。]捕手の小頭と応対の詞と政右衛門と応対の詞との[「]変り[」]は中々六ヶ敷い。
○世に師弟の情を語るに是程六ケ敷[い]段は有まいと思ふ。
又大隅が、○幸兵衛が出て往つた後で、婆さんが[『]戻らしやるまで寝られもすまい[』]の独り言の六ケ敷さと云ふたら、私は一生に一度も其心持ちに語れませなんだ[、]と云[つ]て居た。
○又お谷の出の[「]ウキタヽキ[」]の節と足取を[、]或る大家の太夫が、憂と泣との腹を持つて語つて居るのを聞いて、満場の見物が感心して居たが[、]是は岡崎を語る事を知らぬ太夫である。此所は寒いと云ふ心持と、静かと云ふ心持と二つに腹を〆めて、八九月の大暑の時に語つても、満場が冬の寒夜に居る如き心地になるやうに語らねばならぬ。憂を持のは[、]ナヲス処からである[。]岡崎の宿より先きに日[が]暮れて[、]此所が峠であることは、昔からの極まりである。
○大隅太夫は火の番が[、『]つぶやき帰る[』]と云ふ音遣ひで、毎日[ワ]ーッと聴衆に感嘆させて居つた事を忘れぬのである。
○夫から[『]癪と寒気にとぢられて[』]と云ふ処は、毎日大隅太夫と云ふ人間は居らぬやうで、浄瑠璃斗りが満場に漂ふやうになつて居た。[○]夫から幸兵衛が帰つて、門口で政右衛門と[の]応対[の]する処が、此段の打止めに六ケ敷処である。
幸兵衛が家に這入つてからは、普通の義太夫節になるので、気を付けて語りさへすれば好いのである。夫を此辺から一層モタレ込んで語る太夫があつたが、夫は沙汰の限りである。
 [最後に肝要な事を一つ云つて置く。多くの太夫が此国根風、即ち初代住太夫風と云ふ物を知らずに、住太夫風は豪らい〳〵と天狗を云つて居る丈けで、其風を知らぬから、芸が総て油売に成つてタラ〳〵と長く斗りなつて仕舞ふのである。庵主は之を摂津大掾と大隅太夫との両人より同じ様に聞いた。曰く、
「国根風と云ふ物は、安永の中頃より一般の芸風が違つたと云はるゝのは、此人の仮名詰、間詰の名人であつたからの事である。総て太夫が此風を忘れたならば、何物も語れませぬ。夫が古浄瑠璃の回復である。即ち仮名詰めとは絃を捨てゝ云つて仕舞う事である。夫が力なければ出来ぬ事である。『アート、見送りて襖の蔭』『硯の海のそこはかと』『既に其夜もしん〳〵と』『雨に連れ風に連れ』『師匠の頼に』『アート、見送りて菅の谷が』又「カヽリ」でも『トヾカイデーーヱヱ何とせふ』と云ふが如く、サラ〳〵と云つて仕舞う事である。此風は決して忘れてはなりませぬ」
との教訓であつた。]
先づ此段に就いては大概コンナ物である。