黒白誌掲載記事と較べ、素人講釈で赤字は削除され、[青字]が追加された。
 
黒白 第5巻1号(大正10年1月)通巻46号
 
義太夫虎の巻 恋女房染分手綱六ツ目 沓掛村の段
 
             胴摺帽人 寄
 
[(二十九) 恋女房染分手綱 六ツ目切 沓掛村の段]
 
 此外題は元近松門左衛門の作であつたが、何かの訳で格別流行らなかつた[。]其後四十五年を経過した後、吉田冠子、三好松洛が之を増補して、寛延四年未二月[十一]月改元)[(大正十五年を距る百七十六年前)]竹本座に上場せし以来、西物中の錚々たる出し物として、権威を有する事になつたのである。此段の役場は、竹本錦太夫であつた[と思ふ]。此人は前名和佐太夫、綿武と云ふ人にて、異風なる声で、面白く語る上手の大達者なり[である]。忠六布引の琵琶等は此人の風である[。]此沓掛村も錦物として修業する事にすると、殆んど動きの取れぬやうに六ケ敷物である。此段は後世声の悪るい人の語り物のやうになつて居るが、夫[は]大間違である。声が良くても悪るくても、遣う丈けの音は、ドウしても遣はねばならぬ。夫が出来ねば沓掛村を読んだので、語つたのではないのである。摂津大掾は若年の時、春太夫師に沓掛村の[風を覚へて置きたいと思つて、]稽古を頼んだら[、]
「お前は難声で、迚も沓掛村の音遣ひは出来ぬから、今は好い加減に遣つておけ[紋下の湊はんの語りやはるのを能く聞いとけ]
と云はれた。大隅太夫は団平に、シツカリ稽古はして貰[つ]たが、或る時師匠に是で宜敷ウ厶[い]升かと云[う]たら、団平は[、]
「お前は沓掛を語つたには相違ないが、宜敷ウ厶い升かとは、何と云ふ太い云分じや、私は今日まで此段で成功しやはつたと思ふ太夫[は]んは、長門[は][、湊はんと二]人じやと思[つ]て居る、お前は馬鹿じやナア」
と云はれましたと云[つ]て居た[。]帽人[庵主]も此段は沢山聞いたが、先の弥太夫、住太夫、先の津太夫、組太夫、大隅太夫と、耳に蛸が出る程聞いたけれども[、]耳に残つて居るのは只の一人である。夫は組太夫の語り口であつた。其余の太夫のも宜かつたかは知らぬが、大抵大同小異で、恐ろしいと思[う]たのは一つもない。組太夫のは間と足取と息遣ひと変りの鋭い事とが、今尚ほ頭に泌み込んで[、]「沓掛もアヽ語らねばならぬと極つたら、迚も恐ろしくて一寸手が付けられぬわい」と思[つ]て居る位である[。]故に其一句一動の働きは、今尚覚へやうと思はずに、頭に残つて居るのである。先年組太夫が上京した時、日本橋茅場町の宮松亭で、沓掛を語ると聞いたから、何でもと駆け付たら、富助が弾いて居た[。]久し振で組太夫の顔を見たら、大分憔悴して居た[。]扨て語り出すのを聞いて見ると、皆暗れ枕文句が聞取れぬ、足取も乱れて居る、夫を富助が実に塩梅能く弾いて居る。此[の]富助の修業と技量には[又]感服したが、従来煮える程感服して、全く沓掛村の神様じやと思[つ]て居た[、]組太夫の語り方が、是ではと尠なからず失望した所が、詞になつて来て、
『アノ子の布子代りに、儕が此ドテラを売て[、]分けて取つて下され』
との一句になつたら、見物全体は申に及ばず、斯く云ふ帽人[庵主]も、共にグウツと引付けられて、前傾きになつて仕舞[つ]た。夫からズーツと仕舞まで釣付けられたなりに、ポンと突放なされたやうになつた。帽人[庵主]は矢張り、組太夫は沓掛村のチヤンピオン、此段の名人じやと思ふ。是がこの太夫が帽人[庵主]と今生後世の別れの一段であつて、再びアンナ沓掛村を聞く事は出来ぬのである。以上帽人[庵主]記憶[了簡]の統計に因ると、第一が語り下ろしの錦太夫、第二が団平の云[つ]た長門太夫、[第三が湊太夫、][四]帽人[庵主]の数回聞いた組太夫である事になるのである。マダ外の人のを聞いた名芸人のを入れて、[ら、名人の]統計を拵へる事は出来るかも知れぬが、夫は帽人[庵主]の生存中には不可能の事である故、帽人[庵主]は生きて居る中に、[切]めて今一人丈け、面白い忘られぬ、恐ろしい程の沓掛村を聞きたいものじやと思[つ]て居る。