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[−(五十六) 摂州合邦が辻 下の巻 合邦住家の段]
黒白 第3巻10号(大正8年10月)通巻31号
[+○ 合邦住家の段
胴摺帽人 (寄)]
[
+予は此段を聞いて研究する事、故摂津大掾、同大隅太夫の二人を以て標準として居る。元来、]此段は安永二年巳[−の]二月[−(大正十五年][+、今]を距る百[−五十四][+四十七]年前[−)]大阪北堀江市の側座元豊竹此吉太夫、同此太夫にて[−、古浄瑠璃の風を語り残さんが為めに、]興行せしが始まりにて、此場は、[−即ち][+三代目豊竹]此太夫が語りたるものである[+。][−との事、](文化の初め死す)此太夫は前名時太夫、又八重太夫と云[−つ][+ふ]て、通称岩田町銭屋佐吉と云[−つ][+ふ]た[−との事][+人]である。筑前掾の門弟にて、堀江市の側に芝居を建てゝ、自分で語つたが始まりである。其後綱太夫も語りて、少しく風も違[−つ][+ふ]て来たが、概して此太夫風の物で[+あつて]、[−一番働いた][+東物中の一番スネた]品物である。即ち玉手の出の枕は四段目の節であつて、『気はうば玉の』に音を遣ひ『玉手御前』は真ギンの音を遣ふのである。此段中『玉手御前』と云ふにギンの音を遣ふのは、此処一つで、後にある『玉手御前』は皆尻が一の音に落ちるのである。入平の出の足取を語つた迹「藪畳」より「窺ひ居る」までは、潜み声である。合邦の詞は坊主がゝつた世話詞の中に、屹度律義の気象を現はし、女房はドコまでも慈愛一方の婆詞である[−。][
+、]『泣ねど親の慈悲心を』と今時語つているのが、即ちアレが[−綱][+総]太夫節で、[−綱][+総]太夫から此節が変つたのである[−と]。『オヽ嘘であろ/\オホヽヽヽヽ』の笑ひは合邦に気兼ねした婆さんの笑ひである事が、ハッキリ分らねばならぬ。玉手御前の「サワリ」表に意気を持つて、心に深き憂を含んで語るのである[−との事]。総て義太夫節は色々の理窟屋がソコデ泣ては筋[−が割れて][+を割つて]仕舞ふとかソコデ笑みを含んでは人形の腹の中が知れるとか[−と][+、]皮肉を云ふが、夫が[+此芸の]大間違である。此段では玉手の此「サワリ」を聞いて聴衆が、ハヽア此玉手は口ではアンナ色気タップリの事を云[−つ][+ふ]て居るが、何か腹の中に深き考へがあつて、決して不貞一方の女ではない。即ち悪い女ではない[−。][+、]善い人であろふと聞[−分][+受]ける[−やう][+よふ]に語る。夫が六ヶ敷のである。一ノ谷の陣屋を語つて[+、]熊谷が豪壮の詞の中に[+、]強い一方の荒武者と聞[−ゆ][+へた]れば、語れて居らぬのである。心に限りなく多情を含[−まれて][+んで]、全身に涙の満た人、即ち熊谷で泣く[−やう][+よう]に語つて、始めて筑前掾の語り物の要領を得たと云はるゝのである。故に此玉手の「サワリ」は、一段中重複の意味のある一番六ヶ敷処にて、毛筋程の油断もなく、或程度まで玉手の心情を聴衆に感得させると云ふが難事である。合邦はドコまでも真面目に、怒りに怒り、憤りに憤りて、其中に親子の愛情があればこそ、後に玉手の云訳を聞いて『オイヤイ/\/\/\』の深情の破れ所が語れて、始めて合邦丈けの結び目は付くのである。俊徳丸は、能ならば主手の玉手の連で、ドコまでも品よく盲目を忘れぬ[−やう][+よふ]、婆さんは脇の合邦の連で、総て合邦にカラマル事を忘れずに語るのである。此段を語るには、能の謡本の弱法師の一番をよく読んで語るがよいのである。夫から俊徳丸の出から、玉手の嫉妬になるまでが、一番運びの六ヶ敷所にて、此が此太夫風の大事の所である。夫から玉手の嫉妬は、此段の眼目であるから、間を大きく、引息を十分に取つて、マクレ間にならぬ[−やう][+よふ]、人形に同化して、自分が人形になつて語らねば、人形が[−生][+活]きぬのである。『コタへ兼ねて駆け出る合邦』は息で十分「ヘタッテ」語らねば、合邦の足取が語れぬのみならず、後が「マクレ」て云はれぬ[−やう][+よふ]になるのである。玉手の手負ひ『憎い筈じや』は手負中、千本桜三段目のすしやの権太と、此玉手が一番難物としてある位故、屹度「息」の注意をして語るものである。『道理じや/\』「チン」『憎ウいイイ筈じや』と一息に語つたのは、摂津大掾一人である。併し夫が決して自慢もで良いのでもない。此手負の情を語るには『道理じや/\「チン」憎ウいイイ、「チン」「カスレテ」はずウヽヽじや……』と此太夫、[−綱][+総]太夫から春太夫までソウ語つた[−との事][+の]である。夫が「ヱ」の譜から、「サ」の譜まで、クリ上げるには、「チン」でよき「息」を取らねば、手負の情が浮いて来ぬのである。只だ一息に「上」の音自慢で、「サ」の譜までクリ上げて、クル/\廻して居るのは[+、]前には無論受けるけれ共、手負の情は逃げて居るに相違ない[−とは団平が云つたと大掾から聞たのである]。是は摂津大掾の芸の力で語つて、始めて成功したのである。玉手の云訳は寸時も手負たる事を忘れずに[+、]スラ/\と語らねばならぬ。夫が中ゝ六ケ敷のである。其中に『思案を極め』の「カヽリ」の節から『黄泉の障りと成るわいのと』までが、殊に此太夫風の標本で、最も音遣ひに注意を要する処である。又『サレバの事』から『尋ねさがす心の割符』までが同じ風である。外にも沢山あるが、大略ソンナ処に注意を要するのである。調子上[−つ][+り]て「取々」の「ハルフシ」から、「大落し」まで[+、]是丈けを又一段見做し、一大事に語り[−。][+、]其以後は落合風の段切りと思[−つ][+ふ]て語つて良いと云伝へてある。総て義太夫節は、名人の半時浄瑠璃と云[−つ][
+ふ]て、即ち今の一時間で、是丈[−げ][+け]の物を語り上げたものにて、[−曾て][+前の]摂津大掾は、「浄瑠璃も段々下落致しまして、私共の様な下手斗りとなり[−まし][
+升]て、昔の半時浄瑠璃、今の[−二][+一]時浄瑠璃となつて仕舞ました」と云[−つ][
+ふ]たが[+如く]、芸術は総て下落して、太夫が未熟不鍛練の為め、[−講][+高]座に上つたら休む工夫斗りをして居るから、コンナ事になるのである。此合邦の段を今の一時間と十五分位以上掛つたら、満足に語れて居らぬのであると思[−つ][+ふ]たらよいのである。節を付け勝手に朗読した上に、古人の風も、極り切つた「息」もメチャ/\で、其上に一時間三十分以上も掛つたら聴衆を半殺の目に合せ、給金斗り高く取るのは、此芸道の大罪人と云はねばならぬ。況んや一人前の太夫として、其段中の人形に同化する事が出来ずして、芸が動く筈がない。曾て摂津大掾の咄しに、「私共は未熟でソンナ事は厶い[−ま][
+升]せぬが、綱さんが[−講][+高]座から下りられて暫くの間は、体が間拍子になつて居て、直ぐは元の体に成られなかつた[−との事][+の]で厶い升」と云[−つ][
+ふ]て居た。夫でこそ本当の芸人として尊敬すべく、又決して第二者の模倣を許さぬと云ふ権威があるのである。[+(了)]