御所桜堀川夜討  三段目切  弁慶上使の段  <「黒白」第126号(昭和3年4月)>

  『近世邦楽年表』に依るに、此外題は、元文二年巳の正月二十八日竹本座に上場し、作者は文耕堂、三好松洛としてある。役場は、二代目義太夫即ち竹本上総少掾が播磨の少掾と改めて此三段目を語つた筈である。其後宝暦十三年未の十二月九日竹本座に上場し、序切が竹本志賀太夫、二ノ切が竹本政太夫、三ノ切が同政太夫、四ノ切が竹本錦太夫となつて居る。其後江戸に於て、竹本越太夫と初代鶴沢仲助が此譜節を全部付けかへて上場して大人気であつたのが、今一般に語つて居る「弁慶上使の段」であるとの事。此は、庵主が或る人から聞いた事であるから、参考として書いて置く。以上の筋合から考へて見れば、此段はドウしても「播磨風」に語らねばならぬのであると思ふが、譜(ふし)もいじり、文章も勝手気儘にいじつてあるから、今では捕へ所がないので、只当節(あてぶし)斗りと成つて仕舞ふて居るのである。其中にもドウか「間」丈けは「播磨風」を失はぬやうに語つて貰ひたい物である。「播磨風」とは即ち、政太夫の御家柄たる「三上の音」と「コワリの音」と「トンと云ふ音遣ひ」を千変万化応用して念を入れて丁寧に運んで貰ひたいのである。「播磨風」の標本と云ふては、庵主の微力で一寸捕へる事も六ケしいが、先づ「ひら仮名盛衰記の三段目逆櫓の段」をよく味ふて見るがよいのである。併、「逆櫓の音遣ひ斗り」で此「弁慶上使の段」を語り通して見れば、大体に於て節を破壊(こわ)さねばならぬ所が沢山出来ると思ふ。先づ、「ヲクリ」を語つて「ジヤン」し〆たら(大間を明けて)「程もあらせず」と云ふのにも、「ホドーモー、アラセズ、イリーイィ、キタアーアアルハ」と云ふ塩梅に「間」を大きく明けたら文章を「ツメ」て云ふ。夫を云ふたら其次は又持てる丈け持つて又キユツと「ツメ」る事。そふすると其後に「テン」と十分の「間」を持つて三味線が弾ける。其「テン」と聞いたら又大きく「間」を明けて「ホリカワゴシヨニカクレーヱヱ、ナキ」と「ハシリ」て「ツメ」るのである。此等を「播磨地」の運(はこび)と思ふて居たら大間違はあるまいと思ふ。即ち、「ナンーンギスズリノ、ウミーイーヤマト」と云ふのと同じ心持ちである。故に、「武蔵坊弁慶」と云ふにも「ムサシイー」と持つて「音」の尻を自然と「シメ」て(上げて)「ボウーヲヲ、ベン…ケイ」と「二の上」で息を「ツメ」るのである。夫から、「ヘンヌリトツテ」と走つて「ウチカツギ」と又「ハシル」中にも「地色」の気味で云ふて「ダアーアイモンノハカマ」と「マ」の字を何所(いつ)でも下げて、「フミ、シダア、キイ、イイ、(ヤ)イイイイイ」となる事が出来るのである。
  夫から、「播磨地」に忘れてならぬ事は、「色」と「地色」と「ハシル」のとの語り分けである。即ち、「ムズト坐して」は「地色」で、「一礼し」は「色」である。此で皆分る筈である。即ち、「摂州福島松右衛門子槌松、と書いた負づるが」までは「地色」で、「縁になつて」が「色」である。夫を天下悉く之を「詞」に語つて居る。此等は丸本に「詞」と書いてあつても、何でも蚊でも「播磨地」の本職で是非「地色」に語らねばならぬと、故団平から大隅太夫が暮々(くれぐれ)も云はれたとの事である。丸本と云ふ物は、「地色」と譜が入つて居ても、「詞」に語る所もあり又「地ウ」で語る事もあるは沢山ある事にて、夫は太夫の力量にて情を語り出す時の腹加減にて、三味線の譜が付いて居る事を忘れてはならぬ。ドウか、義太夫節の元祖とも云ふべき播磨の少掾の語つた心持を取違へぬやうに念を入れて語つて貰いたいのである。
  初代義太夫の節付けは、今日からドウしても分からぬ。即ち、「世継曽我」や「愛染川」の譜節(ふし)を「摂津大掾」や「名庭絃阿弥」に色々と探がさせたけれども、「地ウ」と「地色」と「詞」と其外は扇子で叩いて「大きな間を」取つたと云ふの四ツの事より外、先づ分らぬのである。故にドウしても、二代目義太夫の「播磨地」を標準として、総ての義太夫節の腹構へを極めねばならぬと思ふのである。夫から、「イザお通り御案内」の節は、『素人講釈』にも書いて置いた筈であるが、只だ「播磨地」で大事な事は、弁慶の「大紋入」と云ふ「ヲクリ」である。此は弁慶でなくても大紋で這入る時は、此「ヲクリ」を語つて好いと聞いて居る。「伴ひ入にけり」である。「トヲモーヲヲ、ナアアーイーイ(ヤ)イイイーリイーニイイ、(ツントン)ケヱヱーヱヱ、リーイイイ」(トン/\/\/\)となるべきものと聞いて居る。