和田合戦女舞鶴  三段目切  市若切腹の段  <「黒白」第125号(昭和3年3月)>

  『近世邦楽年表』によるに、此段は元文元年辰の三月四日豊竹座に上場し、作者は並木宗助にして、此時豊竹河内太夫は「四段目の口 阿闍梨の場」を語り好評を博したと書いてあるが、後世「チヤリ場」と云ふのは此場からの転訛との事である。三段目の切は無論越前少掾の場役と思ふが、其後寛延三年午八月七日豊竹座に上場した時は、此三段目の切は豊竹筑前少掾が語り、四段目切は島太夫改め豊竹若太夫が語つて居る故に、ドウしても真髄の「東物」でデツチ上げた物に相違ないのである。左すれば「一二」の音と「ギン」の音とを大事に修業せねばならぬ。夫から間が行列を立てゝ揃はぬやう文句と其人形の情合境遇によりて思惑の「間」が違ふて行かねばならぬ。
  先づ「程なく一子、市若丸」と語り出す前は矢張り「江戸ガヽリ」の三味線で弾出さねばならぬと思ふ。大掾が「市若丸」と叫んだ時は、大向ふまで突抜いて居た。「十一歳」と云ふ音は「中音でニジツタ」程高かつた。夫でこそ「鍬形打つたる兜を着し」で「ナヲス」事が出来るのである。大体の太夫が「ナヲサヌ」儘に音がモウ前から「印着(いんちやく)」して居るのである。「弓矢携へ門前に、大音上(な)げ」、此「大音なげ」と云ふ声の澱みなく澄渡つた腹から出た声は、今迄一つも聞いた事がない。「ヲヽ逢いたい筈、道理/\」「トン」から先は皆「一二」の音の妙味斗りで運ぶのである。夫から是は政太夫物も同じ事ではあるが、殊に此段では「三上」の音をハツキリ遣ふ事が大事である。「悪口云ふに猶のこと、いかふ案じて居ました」の「いかふ」などは、能々(よく/\)注意して「三上の音」を遣はねばならぬ。以下、幾度もあるのである。夫から「心ありげに」の「に」の字は「ニイ」と「イ」の字を折つて下げる事は、越前場と筑前場と麓場丈けは禁じてあるとの云伝(いひつた)へである。「ニイ」の「イ」の字は、此三場丈けは「上」げるのであるとの事。ソウすると、「見へにけり」が「ミーイイ、エーエー」と下げた音が遣へて、「ニーイイ(ツントン)ケーエーエーリーイイイ」と「フシ」が塩梅好ふ納まるのである。夫から何でもない事のやうであるが、「首を討たしてやらう」から「勇み立ち伴ひ」の「ヲクリ」まで、音の運びと云ふたら、無類の味である。此等の「音」と「足」とハツキリ運ぶ所が浄曲の大事の所である。夫から大事の事を是に書く。夫は、「鎌倉三代記」にも書いて置いたが、越前場と云ふ物の権威は、何でも蚊でも声の幅一杯に修業するのである。夫が浄曲の根本である。故に、「子を捨つる」と「地色」で出るのが一大事である。天下殆ど「地色」と云ふ物が無くなつて居る。夫は「子を捨つる」の「る」の字が皆高い。故に、只の「色」になつて居る。夫で権威も値打もないのである。ナゼなれば、「る」の字を上げればドコまでも引字をして前に出して語れる。夫が「る」の字を下げる事に「地色」になると少しの引字も出来ず、又意味を弁(わきま)へねば下げられぬ。ソコデ「藪はあれども」の「ハリマ」も、力の有り限り声の続く限り一杯の声で語られる事となる。夫から殊に注意するのは、「身を捨つる」の一語は、腹に有る丈けの「声」と「息」とを身代限りする程出すのが越前風と思ふて居たら間違ない。極端に云へば見つとも無い程大きな声を出すのである。夫が中々少しの修業では出ぬのである。斯る場合の産字は、「ミオーオオオ、スツーウウウ、ル」と「る」の字は少しの引字もなく云へるのである。「身につまされて」の「ハルフシ」も同じ事である。「ツン」と聞いたら「息」を取つたら急に出てはならぬ。聴衆(きゝて)がオヤと思ふやうな「間」を取つてモウ/\/\/\出来る丈けの大きな「中ギン」の声で「アサリノヨイイイーチ」と「ハシル」のである。「市若を打手とは」と真直に云ふに、「深き」は「フカキーイ」、所存も「有明の」を「アリヤケーエー」と声が「三上」に行いたら「ノ」と云ふのである。「月も」でも「ツキモヲヲーヲ」と「心もかきくもる」と「スエテガカリ」にトツクリと落付いて声の据りよく丁寧に運ぶのである。「思ひの」とすぐに云ふたら「イーイニート、ヒカアーサレテエ」となり、「モンゼンーンン、チイカアークーウ」と「ウ」の字丈け上げて、「キーイ、ターアーリイイ、(ツントン)シイイーイーガアーヽヽヽ」(トン/\/\/\)と「フシ」になるのである。
  総て浄曲は何でも丁寧に音を遣つたら其次の文句は真直ぐに云ふ事。真直ぐに云ふたら其次の文句は音を遣う事。重い声を一杯に遣ふたら其次は軽い声を遣ふ事、と云ふやうに心掛けて居たら下手でも無茶苦茶でも、「此の太夫は兎も角も浄瑠璃が動いて居る」とは云ふて貰へるのである。其「動き」と云ふ事が分つて来ねば、(昔は名人も有つたであらふが)近頃の大掾や大隅の芸は分からぬのである。其「動き」が、声は大きくても小さくても張り切れる程「息」が一杯で自由自在であつた故に、後世まで残つて居るのである。今時の太夫衆のは、始まりから終りまで浄瑠璃が少しも「動かずに」一杯でないから、聴人(きゝて)に捕へ所がない。夫で少しも何を云ふたか残らぬのである。夫から斯の如く「動く」浄瑠璃を語るやうになると、「止め仮名」は屹度「キユ、/\/\/\」と締りて来るから、其「ウケ」を弾く三味線も、今時の流れた撥では「ウケ」られぬ事となる。「ツン、テン、トン」が皆音も糞もない。「ウケの間」が締つて来る事となる。ソコデ太夫が其締つた「間」を命の綱として「パアーツ」と放れ術にて「出て」来る事が出来る。力ある太夫が「出られぬ/\/\」と云ふても三味線は何で「出られぬであらう」と変な顔をしてゐる。即ち、「ツン」は「ツン」である、「テン」は「テン」であるのに、「出られぬ」筈がないと思ふて居る。夫が情けない所であつて、其「ツン」や「テン」が締つて居ぬからトツつかまつて放れ術がされぬ程、痺(ひ)弱いから恐ろしくて「出られぬのである」。当今で、責任を持つて真剣で念を入れて聞いて見るに、此間死んだ名庭絃阿弥と豊沢松太郎二人丈けなら、何程(いくら)年を取つて居ても大丈夫…大々丈夫にブラ下つて「出られるのである」。其外の三味線で斯る越前場などで「ハリマ」を一つ語るにも、「息」一杯「声」一杯「力」一杯に出て若し、「テン」「ツン」が痺弱かつたら、其次の句はグウとも云へぬ事となつて、浄瑠璃は停電して中止せねば太夫は死んで仕舞ふ事になる。現今は幸ひにソンナ修業をした太夫が居ぬから、三味線弾は矢張三味線弾かと人も自分も思ふて通つて行けるのである。或時、庵主は大掾に斯く云ふた事がある。「お前は広助と二人で芸をして居るが、茶瓶頭二つを並べてアンナ面白い芸をして居るが…若い三味線弾に弾かせて若返りて、アノ派手な声で派手な芸をして見るやうな気の起つた事はないか?」「ハイ、イヤモウ、年を取まして無理がきかぬやうになりましたので…モウ兎ても若い者の三味線をつかまへる事は出来ないと思ひ升…広助なら、覚へて居る事が極つて居りますので安心して語つて行かれますので、老後の仕事には仕合せじやと思ふて居り升」と云ふたが、此咄の分る人なら直ぐに芸道の事は分ると思ふ。「無理がきかぬ。つかまへる事が出来ぬ。覚へて居る事が極つて居る。安心して語つて行かれる。老後の仕事には仕合せじやと思ふて居る」夫であれ丈け芸道の上で働けたのである。又広助は斯く云ふた。「私は二見さん(大掾)が嫌やがりやはる程稽古に行て合せて貰い升が、アンナさら/\/\した芸と云ふ物はござりませぬ。中々思案して居ては弾かれませぬ。アノ方の腹のサラ/\した所を苦なしに呑込まぬ事には『ウケ』の間が取れませぬ。アノ方に三味線を弾かして貰ひ升斗りで、此年になりましても旦那はん、芸が上りますからナア」。即ち、「サラ/\した芸。思案しては弾けませぬ。お腹のサラ/\した所。『ウケ』の間が取れませぬ。芸が上ります」、此赤茶瓶二人の咄は、実に芸道の咄しとして面白い極妙であると思ふ。
  夫から、「云訳聞いて板額が」からの「息込」と云ふたら命掛けである。「跡に、残りし板額は」の「ハルフシ」は、廻して泣いてはならぬ。日本無双の勇婦の板額であるから、情斗りで此所は語るのである。「アトニーイ、ノコリーシ」此所で「テテテン」と呼び出してはならぬ。「テン」と弾いてウント「息」を持つて、「ハンガクーウウハ」。此板額と云ふ一句の情は、大掾以後日本に、一人も此真似は出来ぬと、庵主は信ずるのである。夫から「今思へば神の告げ」と云ふに、(カブツテ)「ツウゲーヱ…トヲモ(チン/\/\/\/\)シイラアズ、ヨソノコノ(とヒロウテ)花々しきを見るに付け此市若はなぜ遅い来そうなものと死る子を」まで一息に運んだ。此が又日本一である。「マアーチカネタノハーハ、ナニ、ゴヲヲ、トヲヲ、ゾーヲヲ、ヲ/\/\/\/\/\」と「クリ上げ」に語つた時は、鎮まり返つた満場の、こらへに/\て居た面白さが、一度破裂して、塵埃りまでヒツクリ返す程の、拍手喝采であつた。(予定の丁数を超過したから、叱られると思ふから、此位で擱筆する)