苅萱桑門筑紫★ 守宮酒の段  <「黒白」第124号(昭和3年2月)>

  『近世邦楽年表』によるに、此外題は、享保二十年八月十五日、豊竹座に上場し、作者は、並木宗輔、並木丈助。此三段目の役場は、口  豊竹駒太夫、切 豊竹越前少掾と聞く。其後、筑前の掾、麓太夫、染太夫、重太夫等が、盛んに此段を演奏したが、皆「東の元祖」の風を捉らへて、火水となつて研鑽したので、一世を風動する外題となつたのである。然るに明治十四年の十一月に至り、春太夫の死後、豊沢団平と竹本越路太夫とが之を「駒太夫風」に手を付けかへて、大の不評を買つた事は、庵主が『素人講釈』に、委敷(くはしく)攻撃して置いたが、元来此段は、趣向が極(ごく)猥褻で無理である。並木一流の名筆ではあるが、余り趣向が極端過ぎる為めに、筆致が消化して居ない所がある。夫に誰が手を付けたか、其曲譜が、如何にも老熟であるのに、名にしあふ、一代の名人、越前の少掾が、満身の精魂を傾けて演奏した。夫が即ち幾百年の後まで、伝統する程、芸道の礎風を遺したのであるから、我、人ともに、斯る崇高なる芸格は、決して、不謹慎な事なく、修業に修業を加へ、鍛錬に鍛練を重ねて、其芸風の妙所を、竅窮せねばならぬのである。夫から、度々人にも問はるゝ事であるが、其越前の少掾の「風」とは、ドンな事であるかと云ふと事であるが、庵主も、種々様々と考へても見たが、何様微力の上に、一代の名人が、死力を挙げて演奏した芸妙が、何としても筆の先に、書き顕はさるゝ筈がないと思ふのである。庵主位の者に、夫が書かれたら、芸妙でも何でもない。又夫を是が「越前風」じやと、仰々敷く吹き立てたら、夫こそ真の法螺丸(ほらまる)の所作である。他に「越前風」を知つた人が、沢山有るかも知れぬが、庵主は、僅かに、摂津大掾、大隅太夫、名庭絃阿弥、位の人々から、咄し聞かされた丈けが、庵主の斯芸智識の淵叢(えんそう)であるのである。先づ、
第一に、三味線弾が、息一杯の「間」で弾く事。
第二に、太夫が、又息一杯の「間」で語る事。
第三に、小さく、高い声を出そふと思はゞ、低い大きい声から、細工でなく、小さく、高い声になす事。
第四に、大きく、広い声を出そふと思はゞ、小さい高い声から、細工でなく、大きく、広くする事。
第五に、「ノリ地」を成丈け、仮名で云はぬ事。
第六に、「スネ地」を出来る丈け、鍛錬して、耳立たぬやうにする事。
第七に、高く低く共、其声にて、情合の消へぬやうに音を遣ふ事。
第八に、「詞」の「止め」「ハシリ」「ネバリ」を、情合の真実から、云ふ事。
第九に、「カハリ」を、細工でなく、腹から、語る事。
第十に、鍛錬の為めに、何もかも、掴み捨てるやうに、語りて、情合が、浮出るやうに、心掛ける事。
大抵、右の十則が「越前風」と思ふて居たら、大間違はあるまいと思ふ。此十則さへ呑込んで、語り分ける丈け、修業すれば、大声、小声、美声、悪声の別なく、義太夫節は、腹捌き斗りで、スラ/\と、語り別けられる物である。故に、摂津大掾が「鎌腹」の元祖で、組太夫が「竹雀」の稽古をして居るのを聞いて、大掾が感服するやうな物である。善か悪か、両人とも、日本の義太夫節界では「三役」である。夫に大掾の美声で「鎌腹」が元祖で、日本一悪声の組太夫が「妹背山の四段目」の「お三輪」が良かつたと聞いたら、誰でも、其修業の程を、思ひ遣る事が、出来るであらふ。故に大掾の「守宮酒」は「神明怒りの鏑矢」で、泣かせて置いて、新洞左衛門の「未来夫婦と悦べど、悲しむ親が此世から、夫が見へるか…たわけ者」で、満場を泣かせたから、先づ此以上の「守宮酒」は、当今では、あるまいと思ふ。夫は「夫が見へるか」と云ふ時の、大掾の眼(まなこ)は、全く血走つて、腹に一杯涙を持つて、詰めて「たわけ者」と云ふ、其心持が日本一であつた。此丈けで、全編の何所でも、研究すれば、当らずとも、大様は語れる筈であると思ふ。