壇浦兜軍記  三段目口  阿古屋琴責の段  <「黒白」第123号(昭和3年1月)>

  『近世邦楽年表』によるに、此外題は、享保十七年壬子、九月九日、竹本座に上場し、作者は、文耕堂、長谷川千四とある。此時の役場は、竹本大和太夫(元彦太夫)で、其後宝暦六年、丙子、二月朔日、京都の蛙子屋吉兵衛が、座本となつて上場した時は、此「三ノ口」は竹本紋太夫である。夫から明和八年、辛卯、八月十四日、豊竹座に於て、豊竹和歌三座本にて上場した時、此「三ノ口」は、豊竹駒太夫が語つて居る。夫から安永九年、庚子、七月、大阪北新地、西芝居にて、此「三ノ口」が「掛合」にて上場せられ、其時は何でも、「染太夫、重忠」「弥太夫、岩永」「駒太夫、阿古屋」であつたと思ふ。此時は三味線が、当時大評判の「鶴澤名八」の三曲であつたの事。要するに此「三ノ口」は「駒太夫物」と云ふに止めを指されて、後世の今日まで「駒太夫物」と「風」が極つて仕舞ふたのである。庵主は、『素人講釈』に、色々と、聞いた事考へた事を、書いて置いたが、今夫にマダ、書かぬ事を、少し斗り書いて見やう。
  元来「駒太夫物」を世に「高調子物」と云ふて居るが、之は単に三味線の、調子の高い事斗り云ふた物ではない。斯道中興の元祖と云ふべき、筑前掾の以前は、今日で云ふ、表の調子斗りで、総ての浄曲を語つて居た物であるが、筑前掾になつて、熱心考慮の上、「台広(だいびろ)」と云ふ「駒」を案出して拵へ、裏の調子、即ち今日云ふ「三分、四分」とか、又は「五ホン、六ポン」とか云ふ、低い調子を、三味線弾きに拵へさせて、筑前の掾は、斯界百世の子孫に対して、獅子吼(ししく)をした。曰く、「低い調子でも、浄曲はドレ丈けでも、派手に語れる物である」と、絶叫した。故に「鮓屋の段」でも、「熊谷陣屋」でも、「ハルギン」や「ハリキリ」の高い音を上手に遣ふて、世にも名高い大物を、百花爛漫と語り開いた。即ち、「もふ戻らるでござんしよと」を「モーヲーヲーヲ」と尻を「ハリキリ」に振り切りて居る。「噂さ」も「ウワァァサァーア」と「ハルギン」に振り切つて居る。「トンジヤン/\」と弾かせて「明き桶荷ひ」を「アキヲケ、ニナイ」と「ハルギン」と「ハリキリ」の音に通ふて、唯だ語つて居る。其の「戸を打たゝき」も「奥へ」と云ふやうな音遣ひは、総て「ハリ切」と「ハルギン」とに通ふて居らぬものはない。「陣屋」でも「ハアー、有難涙」でも「互ひに見合す」でも、皆「ハルギン」の音が遣ふてある。
  即ち、斯道絶世の麒麟児とも云ふべき、泉州堺の素人、播磨屋弥三郎なる者が、ポイと駒太夫と名乗つて、斯界に飛込んで、直ちに一家の風を成したのは、其稀代の名音に加ふるに、音の据りと云ふ物が、自然の自得に、妙諦(めうてい)が存在したのである。故に先づ「ギンの音」一つで云ふても「真ギン、中ギン、ウキギン、ハルギン」の何れでも、皆腹の底から、トツクリと、音の根底が、据つて居る。簡単に云へば「マア夫が駒太夫風」の第一条件とでも云ひ得らるゝのであらふと思ふ。故に「腹音」の据らぬ者には「駒太夫風」は語られぬと云ふても好いと思はるゝ。芸人の夫々には、皆特徴があるが、先づ良し悪(あし)は別として、庵主の聞いた太夫衆では、今の津太夫、土佐太夫、源太夫、死んだ南部太夫、等では「駒太夫風」を余程修業をせねば、語るのに困難と思はるゝ。摂津大掾の難声で、アレ程「駒太夫風」を語りコナシたのは、彼が五十歳の頃から、出色の勉強と、自己の音に愛想をつかして、猛力の矯正をした驚くべき功績である。又大隅が、アノ難声で、アノ通り「駒太夫風」の音を好く遣ふたのは、恩師団平が、時間と、精根とを、無視して、徹底的に、稽古を連続したから、彼は無我夢中の間に、アノ音遣を無自覚にて、習得したのである。庵主は、三代目越路太夫がマダ佐野太夫時代であつた時かと思ふ(彼が二十二三歳の頃?)「信仰記」の「上燗屋」を、風斗(ふと)聞いた時、「次第に更ける夜嵐の」と語り出した時、……別な世界から、遙に吹き送られて来た「駒太夫風」の声かと思ふ程、音が据つて居て、此の世で聞けぬと思ふて居た声を聞いたので、驚いたのである。其晩大掾が来たから、「今日上燗屋を語つた若い太夫は、誰の弟子か?ネ」と聞いたら、「アレは、私家(うち)の若い者で厶い升、……マダ旦那方に、聞いて戴く程の修業では厶いませぬ、……」と云ふから、「私は……今の文楽座の太夫の中では、場外れに、音が据つて居て、初めて『駒太夫風』とは、コンナ物か?ナアと思ふ程、面白く聞いたよ、……アレは、大事に育てゝ貰いたいナア」と云ふたら、大掾は、満面に笑みを浮べて、禁じ切れぬやうな顔付をして、……涙ぐましい顔までして、「アノ怠惰者(なまけもの)が、……旦那はんに、ソナイ云ふて戴くのは、……有難い事で厶い升、……本人の勉強にもなり升から、…ドウか此から、叱つて戴きとう厶い升…」と云ふて、夫から段々斯道の咄をして居る中、…何時の間に知らせた物か、其佐野太夫が、庵主と大掾と咄して居る次の間に来て、辞儀をした。庵主は誰が来たのかと思ふて居ると、大掾が、「旦那はん、此が私の弟子の、佐野太夫で厶い升…何分此後とも、お贔屓を願上升…ヲイ佐野…旦那はんが、今日の「上燗屋」がお気に入つて今誉て戴いたのじや…ようお礼を申なはれ」と云はれたので、庵主は此大掾の一言が病付となつて、此佐野太夫の三代目越路太夫を、彼が死に至るまで、排他的絶対の贔屓をせねばならぬ事と成つたのである。庵主は生涯貧乏であつたから、碌な世話も出来なかつたが、呂太夫に鰻を喰はれた事と、三代目越路太夫に大飯を喰はれた事丈けは、心魂に徹して、生涯忘れぬのである。サア庵主の此「駒太夫風」に対する交渉は、「上燗屋」一段で、三代目越路太夫と一生涯の交渉が離れぬ位、貴重にして希有な優雅な物である事が、証せられるのである。読者は、能く会得せられよ。芸術は、人間の力では得難くして、求め難き物である事を。…現代に於ては、総てとは云はぬが、古靱太夫が、アノ悪声でも「鳧の脛」と語つたら、屹度(きつと)「中ギン」に音が据つて「駒太夫風」に聞へるならんと思はるゝのである。夫は彼が、平生の心掛けから、ソウ思はるゝのである。
  中々此「駒太夫風」を筆で書く事は、如何なる人でも出来ぬ事とは思ふが、「重忠」の「されば治まる九重に」と「ヤレ待たれよ岩永」と「刀を杖に頤ひ持たせ」などの運(はこび)が、唯だ物真似でで、長く引張る斗りで、重忠の「品位」と「思惑く(おもわく)」が駒太夫風に漂ふのが、一つもないのである。又阿古屋の「簾を上げて、引出す」其「引出す」が「駒太夫風」の一番六ケ敷い所と聞いて居る。所謂「引かず、押へず、上らず、落ちず、仮名切れ宜敷(よろしく)」と、染太夫が云ひ残した、大事の所と思はるゝのである。此が分れば「駒太夫風」斗りでなく、浄曲の何んでも、其応用は分るとの事である。夫から、『素人講釈』にも、少しは書いて置いたが、阿古屋の三曲は、唯だ三味線弾に稽古をして貰つた丈けで、直ぐに満天下の全部の太夫が、語つて居るやうであるが、古人は、此は全く、別の稽古と云ふて居る。此は太夫が全く自己の考へと力量で語る所にて、三味線弾の奴隷になるのなら、阿古屋の役は一番悪い役となるのである。夫を全くの無考(むかんがへ)の太夫が此段を取るから、「琴責」ではなくて「琴浮れ」と斗りなつて、此芸が、段々流行せぬやうになるのである。
  又岩永の役に、「同席に相並ぶ、岩永左衛門致連」と語るに、「同席」で音を遣つて、「岩永左衛門」で音を遣つてはならぬと聞いて居る。即ち、「同席に相並ぶ」と「止つて」「岩永左衛門致連」と語つて、「南都東大寺」と音にかゝつて語るとの事である。又榛沢の役に、「かゝる折から」と語り出すのに、満天下皆其音が低い。此が所謂高調子の大事の所にて、三味線の絃に構はず、「ジヤン」と〆めたら、其絃に少しも付かず、高い所から出て、ズーツと突抜いて、「御門におろす囚人駕籠」と云ひ詰めるから、「簾を上げて」と受けて語れるのである、と聞いて居る。大掾は或る時コンナ咄をした。「私は、師匠春太夫の存生中、何を語つても、一度も誉めて貰ふた事は、厶りませなんだが、或る時、榛沢の役を貰ひまして…幾度師匠の前で云ふて見ても、黙つて…物を云ふて呉れはりませぬ。…そこで、色々思案を致しましたけれども、考へが付きませぬので、…トウ/\、三味線さんに(何でも浜太衛門とか新左衛門とか云ふたやうである)参りまして、…幾度云ふても、師匠が物を云ふて呉りやはりませぬが、ドウしたら好いので厶りませう、と申ますと、…ハヽア、…もふ今日が総稽古じやのに、…マア一寸、云ふて見なはれと、親切に云ふてくりやはりますから、…一生懸命に、榛沢を云うふて見ましたら、…『ソレじやア、お師匠はんが、物を云はれぬ筈じや。…私でも、物が云へませぬ。…アンタ、何で、榛沢で、ソナイに絃に付きなはる。「駒太夫」を知らずに、百遍お師匠はんの前で、云やはつても、物は云ふて貰へませぬ。…アンタの、持前の声で、絃に構はず、突抜いて、云ふて仕舞ふのじや』…と云ふて呉りやはりましたので、…私はハツト思ひ升て、有難くて、胸一杯に涙が詰りまして、又云ふて見ても、モウ声が出ませぬ。すると、其が『今は云へぬでも、此れから帰(い)んで思案しなはつたら、明日は屹度云へます。安心しなはれ』と云はれましたので、下駄をはきましてまで、土間に手を突いて、お礼を申まして、自宅(うち)に帰まして、一生懸命に云ふて見まして、ドウやら、腹構へが出来たやうで厶りますさかい、明日の総稽古に「トントンジヤン」となりましたから、一生懸命に、絃に離れて云ひ抜きまして、後、師匠が厠(はばかり)に行かれますので、私が付いて行きますと、其道で、師匠が、『ヲイ、…今日の総稽古の中では、榛沢が一番じやぞ。…忘れるナ、…』と云はれましたので、又私は嬉しさに、今度は私が物を云へませず、其厠の板張に手を突いてお辞儀を致ました。其から師匠が、手を洗やはつて楽屋の方に来やはります時、其三味線さんに行遇やはりましたら、師匠がドウして知やはりましたか、『弟子が、榛沢のお稽古を、…有難ふ』と頭を下げはりました。夫を見た私は又其所に泣き倒れました…。師匠と云ふ物は、有難い物じやナア、と思ひまして、私は師匠と其三味線弾きさんの事は、一生忘れた事は厶りませぬ。…唯今の若い者は根つから、榛沢の稽古をして呉る者が、一人も居りませぬので、日本一の、榛沢の免許取と威張つて居る私も、トウ/\一生、此塩梅(あんばい)では、榛沢の稽古は、弟子にも為(さ)せぬなりに、死果てますと思ひ升。ハア…」と咄した事がある。彼等、真の芸術家は、榛沢の役でさへ、此の如く苦心をする。日本の聴衆が、全部気狂になつたらイザ知らず、此儘では、今の「琴責」を喜んで聞く者は、トウ/\無くなるのであろふと思ふ。