心中紙屋治兵衛 紙屋内の段  <「黒白」第122号(昭和2年12月)>

  『近世邦楽年表』に因るに、此外題は、安永七年四月二十一日、北新地西の芝居にて、「座本竹田萬治郎」「太夫竹本染太夫」にて上演し、此段は、染太夫の役場としてある。枕の語り方に付いては『素人講釈』に書いて置いたが、元来此浄瑠璃は、治兵衛とお三の「カワリ」を語るやうに書いた物である。「カワリ」と云ふ物が、義太夫節の中で、一番六ケしい物である。「一番六かしい」と云へば「節」よりも「間」よりも「足取」よりも「息」よりも、此「カワリ」が「六かしい」事となる。ナゼなれば「カワリ」を語らんには、其人形の「境遇」と「心情」と「情実」とを呑込まねば「カワラレヌ」のである。之を呑込むには、心身無我、其人にならねば「カワル」事は出来ぬのである。故に「忠臣蔵の九段目、山科の段」が、義太夫節中の「一番六ケしい」大王としてあるのは「節」や「音遣ひ」や、其他の物が「六かしい」のではない。平一面に、此「カワリ」が組立の、木となつて居るから、夫を呑込まずして語つても、只だ口で言ふ丈けで、面白い事も何もない。夫が全く修業で、此「カワリ」が語れるのである。摂津大掾が一生涯の中に、心往くまで満足に、此山科の段の「カワリ」の語れたと思ふたのは、只の二度であつたと云ふて居た。此紙屋の段も、此「カワリ」の満足に語れた太夫は不幸にして、帽人はマダ、一度も聞いた事がない。
  先づ其「カワリ」の丁場を云へば、「直ぐに仏なり」の「宮戸ヲクリ」から、枕にかゝりて語る治兵衛の心持は「倦(あ)きた女でも、離別(さ)つた後は、銭三百落とした心地がする」と云ふ気である。其心持を決して取失はぬやうにして語る。故に気も心も、重く/\て、耐まらぬ心持で「アヽコレ/\、そりやマア何を云やるぞいの、子まで成した二人が中に」と、自分が未練執着の心を押包んで、女房を胡魔化(ごまか)そふとするけれど、貞節無双のお三が、治兵衛が未練の涙を見て取つたから、耐へ/\し悋気を、一生に一度発露さする叫びが、即ち照応となつて語れる事になるのである。此熱湯の如き、女房の情を濺(そゝ)ぎ掛けられた治兵衛は、其刺戟(しげき)に耐へずして、後悔の情と「カワツテ」「アヽ、過まつた/\、悲しい涙は目より出で、無念な涙が、耳からなりとも出るならば、云はずと心見すべきに、同じ眼よりこぼるゝ涙」と云ふ、真心の言訳をするのである。此治兵衛の後悔咄の中に、小春が太兵衛に請出さるゝ事を聞いて、今まで小春に対して、悋気して居たお三の心が、パツと「カワリ」て「そんな小春は、生きて居る気じやない、死なしやんす/\/\/\わいナア」となる。其女房から其「カワリ」の訳を聞いて、又治兵衛がパツと「カワリ」て、「そなたの頼みか、ホイ」となり、「そふとは知らず今までも、義理知らずの畜生のと、恨んだ心が怨めしい」となるのである。それから箪笥に金の入れてあるので「カワリ」、お三が尼になつた書置を見て「カワリ」、善六太兵衛の止めを刺して「カワル」等、総て此段の「カワリ」が、ハツキリ語れなかつたら、語らぬ方がよいのである。故に斯道の古人曰く「知らぬ段でも、六十ペン読めば、語り方が分る」と。是は「カワリ」場を、極める程、一段の組立一切を、呑込む事である。是丈けの処分(しよわ)けを、腹に持つて「節」や「是」や「間」や「息」を稽古したら、ザツと歩く事は出来る事になるのである。
  夫から、染太夫風と云ふ物は、極伸び/\とした足取のある所に、何とも云へぬ「ツマツタ」ひつさげた「間」で運んで行かねばならぬ事を、忘れてはならぬ。「其大恩ノウ、打、忘れ」と、女房の情を語る所も、「ソノ、ダイオンノヲ」「チン」「ウチイ」「チン」「ワーアースーウウーレ」と云ふやうの足取があるかと思へば、「アホージヤノ、イヤ、タワケノト」「カリソメニモ、モツタイナイ、コラエテ、クダサレーエ、コチノヒト」と云ふやうな運び方が、染太夫風であるとの事。悠容(ゆうよう)迫らざる中に、極々鋭い「息」も吐けぬ、油断のならぬ「間」を、ヒツ提(さ)げて、運び去るのである。悠容迫らざるとは、「兼て、コウとは、白茶、ウラ」「チチチチンテン」とは、何と云ふ、立派な、鮮かな、運びであらう。一寸他に類を見出さぬのである。此が「カネテ、コウトハ、シラチヤウラ」となつては「染太夫」ではないのである。「ヒツタ、カノコモ、ヲシゲ、ノオ」「チンチンテン」とならねば、イカヌのである。「コウ、ドウ、モノ、モノモ、カイ」と、此で「モツテ」ほろりと涙を催す所「アツメ」と語る事。「内場に見ても」で、変な質値(しちね)を見積るやうな思ひ入れがあつて、余り「コシラエル」事は、能くないと聞いて居る。此所では「内場に見ても」と一寸止まつて、三味線弾が好き「間」で「トン」と棹を打つ「間」に「ノツ」て「二十両」と語るとの事。「ヨモヤ、カサヌト、ユウコトハ、ナイ、モノ、マデモ、アリガホニ、ヲツトノ、ギリト、ワガ、ギリヲ、ヒトツニ、ツツム、フウ、ロヲシキノ」と語るのは、お三が心中、耐へ得られざる、涙の「節」であるとのこと。「ウチニ、マア、コヲ、トヲ、ゾヲ、ヲヲ、ヲーヲーヲ」是で心を絞りて、泣く情のある所にて、「コモ。ヲヲ。リイケ、ルウ、ウウ、ウウウンーヌー」と丁寧なる「三ツ入」となるのである。即ちドノ様な六(むつ)かしい「節」でも、ハツキリと、咄のやうに、仮名にならず、成べく、文章に語るのが「染風」と思はねばならぬ、との事である。
  「五左衛門」の「詞」は聴衆(ききて)に「情を割つて」語る事。「エーエ、小面倒な暇乞ひ」は、一寸涙で言ふ事。「サ、きり/\歩め」も同じ情である。夫から「お三が尼に」の「セメ」は小春と共に「積んで積んで積抜いて」、一番仕舞の止めは「ジヤテ、テお三が尼に…」と詰めて「ナナナナ、なつたといのウ…」と、泣落す事。夫から「説経」の「コヲヲヲノヲコヲハ。カアワアユウウ。ウウウ。ウウウ。ウウウウ。ヱーヱ。ナイカイ。イーイ。イーイイ。ナアアアア」は、コンナ所は昔から揚場(あげば)と云ふて(多分抑揚(よくやう)の揚の字であらう)力一杯、投げ出して語る所であるとの事。善六太兵衛を殺して「手を取り急ぐ悪縁の」と語る時、摂津大掾は某人に曰(い)ふた。「テ。ヲ。ト。リ。とアトから『ヒロウ』て『息』で、ハツキリ、語つて呉れませぬので、困ります」と云ふて居た。