此外題は前に書いた通り、近松半二、竹田文吉が改作し、「大阪北の新地西芝居にて」「座本竹田萬治郎」「紋下太夫竹本染太夫」にて上場して、此「茶屋場」は彼の「中太夫」の「三代目政太夫」の役場であると聞く。此前は此段に対する語り方を、帽人と竹本摂津大掾との筆記問答書を書いて置いたが、元来此段は余程の難物にて、今日まで帽人が聞いたのに、上出来と思つたのは一つもない。只だ「三代目越路太夫」が語つた時の出来が、一番印象を与へたと思ふ。語り方はアレよりも旨く語る太夫は沢山あるであらうが、アレ丈け腹構へと情の運びに魂の入つたのはなかつた。此の太夫は、帽人が彼が二十二三歳の時「信仰記の上燗屋」を聞いて、深く将来を期待し、トウ/\一生死に到るまで、贔屓にしたのである。彼が一生の中に、帽人が良かつたと思ふて「甲の点」を付したのは、「上燗屋」と「瓢箪棚」と此「紙治の茶屋場」の三役であつた。斯芸の困難な事は之で解るのである。一人の太夫の一生を贔屓に仕殺すには、先づ三段位の収入があれば大利益である。旦那商売も、余り儲かる物ではないのである。併し一般の太夫のを、ドレ丈け聞いても、幾回聞いても、一生聞いても、一段も印象の残らぬのを相手にして、今度は良いかも知れぬ/\/\と思ふて、死ぬまで皆目無収入で終るのに比すれば、「越路太夫」(三代目)などは、大収入の方である。
此「茶屋場」の如きも、「シヤン」と聞いて「ウナリ」の「間」があつて「天満」とパツト詰めて出て来る太夫なら、一寸耳が立てられる。此「ハルフシ」が旨く行くのは滅多にない。「トシフーウル」と「ル」の仮名を、立派に「ツメル」事が綺麗に出来ねば、「間」が出て来ぬ。「チハアヤーフルウ」、是は「ハ」と聞えてはイカヌ。「チワ」と聞こへた方が良い。「フーウル」と是も綺麗に「ツメル」事が出来て、仮名が立派に切れねば、「ツナギ」の「間」が死んで仕舞ひ、「世の、ワニイグチニイー」と「ギン」にかゝつて「音」を遣ふて置かねば「ノルウ斗り」と走られぬ。「カミナヅキ」は「カンナヅキ」と聞こえた方が良い。「五行」に「身は空蝉の抜殻の」とあれど、是は「抜殻や」となつた方が良い。「半太夫」になつても「南の、元のーヲ」となつては駄目。「ミナーミイノ」と切つて「元ノ」と切らねば、殻(から)駄目である。「ヲヤアカタート」と切るのが「半太夫」の節である。「ココー、トニ」に「ツメ/\」「切り/\」運ばねば「半太夫」の三味線は弾けぬ物じやと聞いて居る。「孫右衛門」の「詞」が皆「侍詞(さむらいことば)」にはなつて居れども、「態(わざ)とらしく」なつて居るのが一つもない。帽人は此時「越路太夫」と念を入れて約束をして、彼は床に上つたが、前後無類の上出来であつた。夫が出来ねば、日本無双の「カワリ」の名人「中太夫」の風にはなつて居らぬのである。其の「カワリ」が十分に出来てこそ、「冠を取捨て」「コリヤ此顔」の「カワリ」が「パツト」とならぬのである。現代の日本国中で此「カワリ」が出来たのは一つもない。「越路太夫」はヲヤと云ふ程「間」があつて「コリヤ」と低い声で云ふた。実に立派な腹構へであつた。日本一であつた。また「間」があつて「ヲヽ兄者人/\/\/\」と云ふた。斯ふなるとモウ、自由自在であるから「面ンーボクナヤト、ドウトフシ」聴衆が皆ワーツと云ふた。是を真の前受(まへうけ)と云ふのである。是を誠の芸と云ふのである。幾年経つても、此時の腹構の芸丈けは残つて居る。
其後座敷で復た語らせたら、今度は永久に忘られぬ程「間」が悪かつた。越路は汗を拭き/\、「エライ事を仕ました…旦那が余り誉みやはつたモンヤさかい…コンナ四九尻(しくじり)を仕ました…面目なや…」と洒落を云ふて、風呂場に逃げて行つた…。即ち夫が芸の面白い処である。「自分で良い」と思ふか「安心する」かしたらば、其時が直に芸の神様に見放される時である。「語れば語る程、謹みに謹みを累ねる事を」芸と云ふのである。「自分の天狗」と「世間の好評判」は自己の芸の死に近づく暮鐘(ぼしよう)であると云ふ事に、深刻に気付かねばならぬ事である。
総て斯芸には東西の両元祖が「引字」と云ふ事を厳禁したのが、即ち「義太夫節」と云ふ名の付いたのじやと弁へて居ねばならぬ。「額際ハタと蹴て」を「ヒタイギワ、ハタトーケーテー」と引張りて語つたら、「チン、チン、チン」とはドウしても弾く事ならぬ。「チン」と一つより外弾く道はないのである。夫を太夫は「ケーテー」と大声で語るのを、三味線の方も委細構はず、ドコからでも割込んで「チーン、チーン、チン」と平気で弾く。是が今の太夫の大正、昭和流である。「ハタト、…ケテ」と「ツメ」ればこそ「チン、チン、チン、」と弾く「間」が出来る。そこで丁寧に泣く息が引かれて「ワーツと泣き出す」と語れるのである。夫を語ると云ふのである。モウこんな処になると、男女混淆(こんこう)風呂の中で、悪戯(いたづら)を始めたやうに「ホタヘ」次第の我儘三昧である。東西両元祖は、決してソンナ芸を残したのではない。先づ是等が、チヤンとなつて来て、何処も彼処も良くなるのである。
死んだ「大隅」は清六に、「呼出(よびだし)を余り弾かントイテンカ…私はソンナ『間』が耳に覚へがないサカイ」と云ふて居たのを聞いた事がある。又死んだ富助は、「私は何を弾いても勝手が悪ふオマスサカイ、一寸した太夫さんを弾きますと恐(こ)ふて『呼出』が弾けませぬ。太夫さんの『間』を悪ふして、飛でゞも出られたら溜まりませんから」と云ふて居た。此二つでも「間」の恐い事が解るのである。今帽人の耳では、ドンナ恐い「間」でも苦なしに、有る丈けの「間」を弾いて居るのは「松太郎」一人であると思ふ。「越路太夫」が此段を語つた時は、余程凝つた物と見へて、一寸「間」が悪いか知らぬと思ふた所が、三ツか、四ツ位より外無かつたと思ふ。夫から「小春」の段切になつたら、帽人は彼の満身の努力に魅せられ、「小春が其力なければ情の運びに打たれて」トウ/\落涙をしたのである。彼の大手柄に感じて、帽人は、カバンから引摺り出して、羽織と帯と袴とを褒美に遣つて仕舞ふたから、翌日は着物がなくなつて、洋服を着て、文楽拝聴に、出勤したのである。「切りの」「道」「男泣に」「ハアー」と泣いて「別れて」と「トツタ」が良いとの事である。