鎌倉三代記 八ツ目 三浦恩愛の段  <「黒白」第118号(昭和2年8月)>

  此段は帽人が先に「紀の海音」作にて「越前風」に語るべき物であると発表した所が、帽人の贔屓の太夫が、親切に調べてくれて、此の「三代記」は、安永十年丑三月廿七日「豊竹東治座本」にて「七ツ目」として「豊竹氏太夫」が語つて居て、「越前の掾」ではないと忠告して呉れた。此警告によりて、帽人も段々調査をして見たが、成程某太夫の云ふ通り「紀の海音」作の方は此「されば風雅の歌人」と云ふ文句は、絶対にない。「越前の掾」の語つたのは、全く別種の「三代記」で、「鳥追ひ大黒舞」の段である事が判つた。是は深く某太夫の熱心なる調査を多謝せねばならぬ。
  然るに是に困つた問題は、帽人が此段を「竹本大隅太夫」に習ふた時「大隅」は、「此段のお稽古は『越前さん』の風で厶(ござ)りますさかい『音遣ひ』と『足取』を能(よ)く稽古しなハラヌ事には、覚へられませぬぜ」と云ふて、煮へ込む程叩かれた。爾後(じご)帽人は、今日まで只だ「越前風」じや/\/\と思ふて、此段を読んで楽しんで居たのに、某太夫が「氏太夫」である、「越前の掾」の語場ではないと云て呉れた事が事実となつて来た以上は、其「氏太夫」風を調べねばならぬが、サア更に其風が解らぬ。ソコデ某人は段々自分の習得して居る「三代記」の事を考へて見ると、「ギンの音の遣方」と「ノリ地の足取」等に到るまで、「越前風」と云ふに差支へないやうである。夫れから更に、安永六年の「豊竹氏太夫」の語つた「丸本」の「黒朱」を「クリ」初めたれば、中々面白い事になつて来た。先づ「氏太夫丸本」の方は、「されば風雅の」が「地ハル」でなく「中ギン」になつて居る。「修羅の巷の戦ひと」からの「ノリ」は「ウギン」になつて居る。同じく「身に引しむる」から「下ハル」になつて居る。「念力通す母の軒」は「フシ」になつて居る。「かつぱと転ぶ物音は」は「スヱテ中」になつて居る。夫から母の詞の中「三浦を育て暮す中」の以下「宇治様より達ての御所望」は「地中」や「ウ」となつて、「わらはも倶にと」が「ハルウ」になつて、「有つれ共」が「色」になつて、「イヤ/\」から「詞」である。夫から「其儘故郷に引残り」からは「地ウ」になつて、「お主に忠義を忘るゝな」が「怠るな」になつて「中」になつて、「よもや忘れのやうがない」が「色」になつて居る。夫から「日毎に人の取沙汰を」が「地中タヽキ」になつて、「今はの楽み心の嬉しさ」が「色」になつて居る。夫から「三浦」の「詞」が「ウ」や「中」になつて、「イデ戦場へ駈け向ひ」は「中ギン」「ウ」等になつて居る。「折角顔見た甲斐もなふ」も「詞」でなく「ウ」になつて居る。「イヤ/\/\是が泣ずに」も其以下も「詞」になつて居る。此朱に因つて之を語つて見たら、矢張り「古浄瑠璃」の「越前風」の「音遣ひ」に漂ふて来るに相違ないのである。
  そこで此「氏太夫」と云ふ太夫は、誰の弟子かと調べて見れば、「二代目若太夫」の門弟となつて修業した人との事。左すれば「初代若太夫」の風が伝統して来て居る筈である。又一方寛政六年寅五月六日「大阪道頓堀若太夫芝居」にて「座本鶴澤三根吉、太夫豊竹麓太夫」として此「鎌倉三代記」を上演して居る。此外題の「八ツ目の切」を「麓太夫」が語り、「付け物」には「志渡寺」を「竹本綱太夫」が語りて居る。此時「麓太夫」が「されば風雅の歌人の段」を巧妙なる「ギンの音を遣ひ」、元祖の風を辿つて語りて好評を博したとの事であるから、「氏太夫」の風としても「麓太夫」の風としても、矢張(やはり)東の元祖の風は決して忘れて語つては居らぬと云ふ事が判つた。左すれば「大隅太夫」として総(すべ)てを「故団平」に訓練して貰ふて居るから、夫が「氏太夫」風か「麓太夫風」かは別として、「越前風」は決して離れては居らぬ事が判つたので、先づ帽人もホツと安心したのである。
  去れば前にも云ふた通り「越前風」は「間」を語るのが主眼であるから、其文章と詞の意味合で一句/\一口/\に間が違ふ事になる。夫で一段の浄瑠璃が一杯になつて来るのである。「短か夜」の「ヲクリ」までは曩(さ)きに書いた事があるが、夫からが面白い。「ヤアミイヲー、ウーカーガイ」まで探つて、「立戻る二人の局」とサアツと云ふて仕舞ふ。其ネバリ加減と走り加減が中々困難で、帽人が天性の愚鈍である為めでもあらうが、大隅に―幾度之を云はされたか知れぬのである。「アンタの『闇を伺ひ』は丸で何を考へて云ふて居なはるか。私いにはサツパリ解りませぬ。『ヤ』と強く云ふて『ミ』から段々低くなつて、其低い中に『ウカガイ』と『コハリ』の『音』を忘れずに綺麗に『息』と『ヒロウ』のだす。アンタは『お素人』じやサカイ、こない云ふて教へて上げるのだす。アンタのは『ウーカーガーイー』になつて居ます。夫で何遍云ひはつたかて駄目だす。『ウカガイ』だす。忘れなはんな…」とコツピドク脂(あぶら)を取られたのである。夫から「富田の六郎」の「詞」で又ヒドク遣られた。帽人は日本国中に富田六郎の詞でケ程に叱られた馬鹿者はあるまいと嘆息した事がある。「シイ、高い/\」は、一つの「高い」は高くて、一つの「高い」は低いのである。「姫を」から低くして、「仰付られたれど」は高くして、「心元なく」が低くして、「横目の使ひ」は高い。「時政公」から高くて「兼て覚へし忍びの術」は低い。コンナ風に此「ノリ」はドウしても腹と息の養ひが出来た上でなければ、古浄瑠璃の影が辿れぬとの事である。夫から「富田の六郎」の引込に「裏口」と息を詰めて「サ、シ、テ、シイイ、ノヲヲー、ビーイイ、イイーイーイイ、ルウーウ」と語らねば「手摺」からドレ程小言を云はれても、返す詞がないとの事。夫から「時姫」の一人舞台になるのは、矢張り「シヤ/\/\/\、チンシヤン」がよいとの事。「カアクー」「チン」「トーヲー」「チチチン」「ヲーヲーヲー」「チントン」、此「トン」に決して付かず「ウ」の「音」から出て自然と下げて「歯アーアヲ」が「トン」に落ちるやうに腹で運ぶ事。「染兼る」も離れた「音」で語るとの事。夫から「胸を切さく御賜物」が六ケしい。「ムネーエヲ、キリサクーウウウ、ヲンータマモーヲヲヲノ」と「音」斗りで持つて「中」に収まるとの事。「アスーヲ」「ヨイ」「カギイリイノヲ、夫の命」「テン」「疑はれても添はれいでも」「テン」から是までは、必ず屹度、仮名で語る物とは、摂津大掾の教へである…。(モウ字数を制限せられて書かれぬから此位にして止めておく)