絵本太功記 十冊目の口 夕顔棚の段  <「黒白」第114号(昭和2年4月)>

  此外題は寛政十一年未七月十二日(昭和二年を距る百二十七年前)大阪道頓堀若太夫芝居にて座本豊竹諏訪太夫、太夫豊竹麓太夫にて開演し、役場は豊竹磯太夫ではないかと思ふ。此「夕顔棚の段」は『邦楽年表』に依れば「用明天皇職人鑑」の第二段「兵藤左内の段」の翻案らしく書いてあるが、兎も角昔から此端場で出世した太夫が沢山あるとの事である。僅か十八九枚の短かい物ではあるが、修業するには中々面白きものである。帽人は長年斯道には執心して居るけれども、立端場では五段か十段かより外調べる事は出来なかつたのである。明治三十九年の頃始めて大隅太夫より此段の事を聞かせて貰ふた時、誠に面白く/\思ふたのである。昨年竹本静太夫が吉弥の絃(いと)で東京の歌舞伎座に来た時、誠に面白く語つて居た。帽人計りでなく、少し斯道に心立(こころだて)のある人は、今日まで賞して居るのである。
  此立端場を修業するには先づ物の呑込みが大事である。夫(それ)がドンナ事かと云へば、先づ「御法のー声も」と云ふ時は、腹に田舎の百姓らしき心構へをして声を出すのである。「尼ケ崎の片辺り」と云ふ時は、海辺の涼しい風でも吹いて居るやうな心持で声を出すのである。「誰が住む家と夕顔も」と呑気な文章があるから、夫に辿り着く為め本を読んで、前から心持を好くして語り出すのである。間には「御法の」と語り出す声を聞く時、ヤア大変、切太夫でも出て来たかと思ふ事がある。故に「御法のー」と云ふ「ハルフシ」は決して廻さずに、麦打ち歌でも唄ふやうに罪なく云ふ「ハルフシ」である。「辺り近所の百姓共」と云ふ所から足を早めて云ふ事。「なふ婆さん」以下の百姓詞の遣り取りが旨く云へぬと、此段は駄目になる。夫がドンと六ケ敷いのである。「老母はつど/\門送り」が中々云へぬ。心に何の蟠(わだかま)りもなく、ホヤ/\笑顔の心持ちで語るのである。「軒を目当に」の「ハルフシ」は、此から立派な衣物(きもの)を着た女が二人出て来る「ハルフシ」であるから、少し力を入れて厳重な心で語ると云ふ「カワリ」があるのである。「窺ふ切戸の庭先に、花に心を養ふ老女」と語る時は、絵を眺むるやうな気で語れとのことである。「去りながら、倅光秀」以下の詞は、心に厳しき気味を以て語る事。「モウ寡婦暮の楽しみには」と云ふたら「オーツ」と掛け声などして「チン」と弾いてはいけない。「間」を詰めて小鳥でも鳴いたかと云ふやうに「三上」で「チン」と弾くとの事。夫を聞いたら色々の小(しょう)天狗の説に耳を傾けず、浄瑠璃の原則に従ひ、「かたらふ間さへ夏の夜の」[三浦別れ]の如く、「かわいらしい中かいな」[十種香]の如く、「ハリ切」から出て気をユツタリと「夕顔棚のーヲヲヲ、下ーアアすーずウーウウみ」「ジヤン」と〆めたら「捨つべき物はゆみー」と「ゆ」の字を低く「み」の字を高く云ふとの事。世間皆反対になるから書いておく。「矢ぞと」と云ふて「云ひ放したる老女の一徹」とは全く腹強き力を入れて語る事。「西行もどきの僧一人、門口に」と云ふたら一寸「合」を弾かせて「秀吉」と云ふ「息の間」があつて、「立休らひ」と収めるのである。「詞半ばへ表口」からは、息の運びが「ヘタツ」て「コワリ」に響いて語る事。「威儀を正して」からは尤も慎重に語るとの事。「老の詞に初菊は」から「カワル」「顔は上気の夏楓、色もなまめく計りなり」は派手に一杯に語つてよろしいが、「フシ」を「トン/\/\/\。ジヤン」と十分に弾かせねば「只黙然と十次郎」が出られぬのである。「三国一の」からの「段ヲクリ」は全く端場になつて語りて、切太夫にヲクリ付けるとの事である。