(八十三)八陣守護城 八ツ目 正清本城の段

 此外題は、文化(?)四年卯の九月(大正十五年を距る百二十年前)大阪道頓堀大西芝居にかはり新浄瑠璃として上場せし筈である。役場は紋下豊竹麓太夫と聞く。輓近(このあひだ)豊竹古靭太夫が、当時の初番付一枚を贈与してくれた。之に依ると紋下は座元、吉田芳松太夫、豊竹麓太夫(*座元吉田芳松、太夫豊竹麓太夫)とある。此八ツ目には竹本麓太夫である。三ツ目の口と七ツ目の口が豊竹浜太夫(後の綱太夫)である。(*三ツ目の……綱太夫)である。削除)三ツ目の中と六ッ目の口が竹本錦太夫で、三ツ目の切と十目の口が竹本染太夫で、四ツ目の切と七ツ目の奥が豊竹巴太夫で、六ツ目の切が竹本弥太夫である。ソコで八ツ目の切が豊竹麓太夫で、十目の切が竹本咲太夫である、十一目は掛合となつて居るのである。
 元来此八陣八ツ目は奥の文章が悪るいので、文楽等でも度々聞いたが,ドウモ情が浮いて来ぬので、去る明治三十七八年の頃、庵主が不完全ながら多少校訂して置いた。今竹本静太夫や鶴沢芳之助などが時々語つて居る。此段は所謂麓場の本場であるから、キチンと裃を着たやうに語らねばならぬ。音遣ひを間違へたり、引字をしたりしては何にもならぬのである。「ギン」の音は「ニジツ」た丈け上から出る事、下りを順当にする事に注意するのである。元来天下無双の名音の太夫の語つた物を、夫以下の声の悪るい者が修業するのであるから、能く気を付けて鍛練せねば聞かれぬのである。
 先づ「三重」が滅多に他の義太夫節に類のない、送り三重を引縮めて頭に付けた譜であるとのこと(**、)「シアン/\/\/\」と三重を弾出すのに、其撥がハツキリ鮮かに「間」が締まつて居らねばならぬ(**、)『行く』と云つたら三味線弾が「ヤ」と云ふ声を掛けて、『ウウウウウーー』と五ツ云ふと「チン」と弾の(*の削除)そこで『ウーウーウーウウウウ、ウー、ウ』と下廻しに語るのである。即ら(**ち)只だの三重とは一寸違ふ(*違ふの)である。『サーア、キイーイイーーイ、ハーーア』と「フシ」になる。「テンツン」と受て「ギン」の「ニジツタ」音にて『二重に建てし』と運ぶのである。多く『思惟(しゐ)の間』と語るが、矢張り『思惟(しゆい)の間』と語るがよい。『人の出入は』の『出入は』は矢張り古浄瑠璃の風で「二」の破れた音である。『虫の音』は、三代記八ツ目枕の『虫の声』の如く、「ギン」の音で一杯に語るのが、越前や麓の風との事。『物凄さ』は『モノーーヲーー』と入れられる丈け入れて、「ギン」で『スゴーーヲヲ、キイイーー』大きく「ツトントン/\/\/\」と出来る丈け非常識に語るがよいとの事。「チントン/\/\ジャン/\」となつたら、『我本城』からは,一切探る「足取」の心持との事。『我れ』は『ワレーエ』に持つて『ながら』と運ぶ。ハズミを探るハズミで『おく露、踏分けてエエエエーーエエ』とならぬやうに『フミワケテ』と止まつて、『エエ』と二ツに折るがよいとの事。『不孝の科』は「カヽリ」に語る事。『よも成るまい』は一本高く収める事。『都でお別れ申してより』からの運びは、アドケナイ娘の詞のやうに、成丈け謳はぬやうにと心掛けて、決して引字をせぬやうに運ぶとの事。元来此東風の物は「地色」を「地色」に語らず、「地ノリ」「詞ノリ」「中ノリ」と云ふやうに、咄のやうに運ぶのを、三味線の方が最も音色よく、「間」をよく、三味線丈を聞いて居れば、謳つて居るやうに弾かせる物との事で、此は大掾が庵主に、和田合戦の三段目を稽古する時、クドく念を入れた教訓であつた。夫から雛絹が自害してからの節廻しが、一番六ケ敷く、此を三味の譜の通りに云つて居たら、手負ではない事になる。此を手負に聞かせるのが太夫の力量である。此等は東物の三段目物にエテある譜付けである。日吉丸の三段目もお政の手負になつてから、矢張比雛絹と同じ事で、譜の通りに謳へば手負ではない事になる。此等は修業の進むに随つて考へねばいかぬのである。夫から荒岬の「文弥落し」から先は、節は手易いが、詞の気分と「カヽリ」と云ふ節が四ツモ五ツモある。此語り分けを考へねばならぬ。夫から段切の流れ題目を丁寧に稽古をして、正清の大往生となり、始めて「ニジラヌ」「真ギン」で端坐合掌を云ふのである。