(八十二)忠臣義士銘名伝 赤垣出達(*立)の段

 此外題は、何時頃の作で,何時頃の初演で、役場は誰が語つたかが、シツカリ解らぬのである。明治三十一手(**年)の頃と思ふ、竹本大隅太夫が丁度東京に来て居て、後藤猛太郎伯が庵主と共に大隅太夫贔屓であるところから猛伯は止せば好いのに大隅を東京築地の瓢屋に呼んで、五代目鶴沢仲助に弾かせて、此段の大天狗振りを大隅に聞かせやうと計画したのである。庵主は大隅に語らせて聞く事は結構であるが、猛伯が聞かせるのは、有ずもがなと思つて居たら、仲助も困つたと見へて、庵主に止めてくれと頼んだ。其中に猛伯は見台を持出させ、身仕度を調へて、仲助に早く/\との催促である。仲助も止むを得ず夫へ出ると、猛伯の語り出したのが、此赤垣出立の段である。猛伯と云ふ人は天性のカンチク声で、調子が高い方と低い方とにフラ/\と逃げる。仲助はハラ/\と心配して、汗たら/\でヤツト一段を演了した。其後庵主が大隅を築地の金水館と云ふ家に呼んで、飯を食はせる時、同席して居る仲助に向つて大隅が,先日聞いた赤垣出立の段の咄を始めた。其時の咄を今はよく記憶せぬが、何でも慶応年中に、倉田千両とかが書いたとか云つて居たやうで、又初演は天王寺辺の長尾太夫とかと云つたと思ふ。今シツカリとは云へぬが、何でも其辺の間に出来た此一段じやと思つて居たら、大差はあるまいと思ふ。其時庵主は面白さに大隅に水を向けて、
「お前は此段を語つた事があるか」
と云ふと、
「ハイ清水町の師匠と、和歌山に参りました時、或るお客に望まれまして、師匠に一度稽古をして貰ひまして語りました、其後師匠が語つて見いと申されましたので、何でも一二度は語つたと思ひ升」
と云ふから、
「気の毒じやが、乗り掛つた咄じやから、今晩一寸聞かせてくれる事は出来ぬか」
と云ふと、大隅は、
「アヽ、寛や(五代目仲助の旧名)…杉山の旦那はんが是を語りやはつたら宜しいぜ……私が解つて居る丈けは今申します…………寛や弾いてんか」
と云ふと、仲助は、
「私い後藤の旦那のお稽古はしましたが………味(あん)じやう覚へて居まへん」
「イヤ/\此間聞いた、アレでよろしい、弾ていナ、旦那はんに一ぺん聞いといて貰ふとナ」
と云ふので、早速仲助の家に人を遣つて、三味線と五行本とを取寄せた。聞人は庵主一人である。庵主はこゝまで大隅を調子に乗せて語らせるのであるから、控へ本に鉛筆を舐めて、 一生懸命に構へ込んだ、サア夫から赤垣出立の段が始まつた。夫が二分か三分の低い調子である。
 『降り埋、むウーーウーーウ』と云ふ、其声の大きさと、長さと、強さと云つたら、傍で聞いて居れば、只だビツクリする斗りで聞取れぬのである。モウ夫で威圧されて、庵主は参つて仕舞つた。『雪の、ヲヲーーヲーーヲ』と持つた声と云つたら、アノ大きな鼻の穴を、庵主の方に向けての音遣いで、又息の根も止まる程押付けられた。『野山アーーアアーーモ』(*『野やアーーまアーーモ』)と云ふ声は大開きに自然に開いた声で、トテモ鉛筆を持つて相手になつて居られぬのである。『サア、ケーーヱ、ヱーーイ、ユヱーーヱニ、身も…………』と「息」を詰めて、後を云はぬから、ヲヤと庵主が振り向くトタンに『破れ笠』と「ツメ」て云つたときは、庵主の心臓は変に異状を呈した。大きいと云ふか、強いと云ふか兎も角彼の芸に呑まれて居るのであるから、庵主其者の存在はモウないのである。庵主は満天下の有らゆる荒浪に揉まれて来た男であるから、大臣や元老位が、五人や八人来て威してもビクともした事はないが、芸の威力に押付けられた形容と云つたら、画にも書かれぬ惨憺さである。只だビツクリして兎ても是は覚へられる物ではないと思つたのである。大隅に本気に稽古をして貰つた人は世にも沢山あるであらうから、覚へもあるであらうが、三尺と離れずにアノ声と息遣ひとを聞いたら、全く庵主の云ふ通りの感に打たるゝのである。其間/\に仲助の「ウケ」や「ハコビ」を講釈する仲助も有難さに一生懸命で眼色をかへて弾いて居る。夫から「トン/\/\/\/\ジヤン」と「早間」に〆めると、『掃除仕舞ふて稽古場より立出る若党曽平太』と云つた其口捌きには、又ビツクリした。コレは兎ても俺には云へぬは(*わ)いと思つた。『ヲヽ、源……蔵……様、では厶りませぬか』……『ヲヽ、……曽平太か』と云つた「カワリ」の大きさ、又ビツクリした。総てドコモかしこもビツクリ斗りである。夫から母との対面となつて『遙かの遠国へ参りますれば………何時………帰国とも相知れず』の処になつて、モウ庵主は引付けられて聞いて覚へる気も何も、何処へか行て仕舞つた。締める丈け締めて居た大隅が、『ワハヽヽヽヽ』と笑つた時は、知つて居ながら又ビツクリした。夫から母と兄とに対する問答は、寸分の隙間もなく、其「息合」と「間合」と云ふものは、如何に修業しても鍛練しても、真似も出来る物ではない。『老さらばふ――ヲヲて』と『て』の字がツマツて、グツと云ふ「息」があつて、下から『ヲーーシカアラーーアアヌ』と云ふのが、全く情合の涙の砲弾が山になつて破裂するやうであつた。此等の事を書けば限りもないが、庵主の微力では兎ても書き得ぬのである。又筆では書いて解らぬやうな困難な事情斗りである。
 併し斯道の普通から云つても、書いた位では兎ても習得せられる物ではない。先づ新作物があつたら、三味線弾が譜を付けねばならぬ、付けたら、摂津大掾でも、三味線弾に聞して貰はねばならぬ。聞かせて貰つてから、自身の力量相当に研究工夫をして、三味線弾と弾合せをする、夫から出来上つて床に掛るのである。故に今庵主が書く位、「息」と「間」と芸術の要所/\を書いておけば、夫で一段総ての浄瑠璃を稽古するに工夫して応用するのには沢山であると思ふ。夫が出来ぬ位の力量の人は、之を読んでも役に立たぬと思ふのである。庵主は此大隅の此一段を熱心に聞いて、永い年月掛つて研究をして、少しも心から離した事はない。今は震災で焼けて仕舞つたが、其本があつたら永年研究した痕跡がチヤンと書込んである。此如くして一度も床に掛けて語るやうな機会はなかつたが、十幾年の後東京築地の同気クラブで、両総裁の蜂須賀候と清浦子が、義太夫を聞くと云ふので催された時、庵主が同クラブの演芸委員であつた為め、是非之を語れと勧められ、始めて此赤垣を語つたのであつた。故に五代目仲助も前後になく稽古の外は之が始めて弾いたのであつた。素より読み付けて語るのであるから、碌な事の出来やう筈はないが、大隅のお蔭で永年凝つて居た物を始めて語つたのは、非常に愉快を感じたのであつた。コンナ新らしい詰らない作でも、大隅と云ふ名人の蒸溜器に掛けて、 一度煎じ出す時は、非常に尊い芸妙が出て来るのである。要するに斯芸修業の妙術は、ドンナ芸でもよく聞いて研究するの外はないのである。少し覚へると直に天狗になつて、人の芸を聞く力がなく、他人の芸は不味く斗り聞へる人は、夫ではモウ斯芸との前途は断絶であると思はねばならぬ。