(八十一)増補 菅原伝授手習鑑 松王屋敷の段

 此外題は、書下しの年月も、作者も、上演の芝居も解らぬのである。譜節の付方は、或る場所は「ギン」の音の遣ひ方と「足取」とが、東風のやうにもあり、又或る場所では、全く西風のやうに思はるゝ所もある。要するに末世の作物であるから、マアこんな物であらう。或る場所は長吉殺しなどの譜も付けてあるやうであるが、先づ東風で語つておけば大違ひはないと思ふ。
 『八重一重』の「三重」は出来る丈け大きく、声の据る事が専一である。『新に建し一構へ』は「地中」に語る事。夫から『庭の立樹も』から以下は、極く静かに運ぶ事。『爰に住居も』も「地中」で『奥深きイーーイ』は「ギン」で、『心も』は「色」で、『タレカーア、サーアア』と「フシ」に収める事『御いたはしや、丞相の』と「スエカヽリ」を「中」に収めたら、「長地がゝり」にて『御台所は此程よ――ヲヲリ』と運びて、後は「ギン」に「フシ」を辿る事。以下は「色」のトメ/\を、余程念を入れて語らねば、猶更に値打のない物となるのである。『筑紫に――い、「上にて」ござる―ウ』と入れて『ワガー、ツマヤカンシユサイニタダヒトメ』とサラ/\と運ぶ事。『早玄関へ高挑燈』からは成丈け巾広く運ぶ事。『時平の家来春藤玄蕃上座へむづと』まで切らずに云つて、『押直る』と「フシ」に収める事。「カワリ」て『斯くと知せに主の松王』と尤も静かに運ぶ事。此松王と玄蕃の詞の遣り取りは此段の眼目にて、此で太夫の力の解る所である故、緩急軽重をよく工夫して、気を付けて語る事。『風を食つて落しやらんもはからはれず』と五行本に書いてあるが『は』の字がないがよいと思ふ『悠々として、タアーアーアア、チイーーイ、カアアーーア、ヱヱヱーーヱヱ、ルウ………』と「錦フシ」に収める事。此から女房と松王の遣り取りから『涙に誠あらはせり』までは、事理明白に「詞」も「地合」も緩急をハツキリ修業して運ぶ所と思ふ。『ハツト計りに女房は』からは音を間違へぬやう、「間」を丁寧に情を辿りて語る事。『用意の懐剣抜放し』となつたら、今迄の腹をかへて場面を改める事。松王の詞は此辺から成丈けサラ/\と運ぶ事。『心に思はぬ悪念も』と五行本にあるが、念は、言がよいと思ふ。『打てかはりし夫の義心』と語つたあと『聞く女房が嬉し泣き』と云ふ、此嬉と泣の二字が、作者の大注意の処にて、此て此段の作意を引絞つて堪納(*堪能)した所である。故に語る人も其心で、一杯の情を籠めて云はねばならぬ。『聞く女房も――ヲ、ウーレーシイイ、ナアア、キイーーイ』「エヤ」と云ふ掛声で「クリ上」になるのである「アイ、……あい、とは云へど――ヲ、今マーーアアサラニ、心の、張の、弦る――ウ、キレテ、力、ナアクウナアアクウ、(*ナアクウナアクウ)タチアガレーエ、バア、アア』と「三ツ入」になるのである。此からが譜節者の注意の所である『取出す小袖もかゝる身イイイニ、ナルト、白地いと染め上げし、齢を祝ふ、ムウレ、ヅウルウモ、今はアーア、「ヨイ」アアアアアア、アヽ、アヽア、ワアーー』と云ふやうになつてくる。此「地合」の中には、越前風の「ツメ地」と云ふ「フシ」をよく練習せねばならぬ。『明六の』と云つたり『鶏は、にくし』と云つたり『それは、出船の』と云つたり『子の』と云つたり『一葉は、枯れて、又一葉』と云つたり、皆「ツメ地」である。何にしても古き名人の語つたと云ふ風格などは、ない物故、別に取立て六ケしい物ではないが、「節」や「息」を修業するには好き一段である。よく三味線に就いて修業すると大変為めになる一段であると思ふ。夫から普通の浄瑠璃では段切に『影向の、松に』の『松には』を「トル」が此段では『松ウーーニ』「シアン」となる。此丈けは忘れてはならぬ。夫は此菅原伝授では、二段目の道明寺に此風が政太夫で始まり、三段目の桜丸切腹に筑前掾で『神イーーノ』となり、四段目の手習子屋の段に島太夫て『鳥辺――ノ』となつて居るから増補でも菅原伝授と名を打つたのであるから『松ツーーノ』と云ふ事になつてゐる。