(七十九)三日太平記 九ッ目切 松下嘉平次住家の段

 此外題は、書下しの年月も上場の芝居も、震火の為め書籍全部の焼失に付、調べる手寄もないのである(*作者 近松半二。三好松洛。八民平七。竹本三郎兵衛 書下し 明和四亥年十二月十四日初日。竹本座ニ於テ)。只だ明治十七年申の春頃、大阪の彦六座に於いて、出世太平記九冊目と銘を打つて上場し、嘉平次住家の段を豊竹柳適太夫が語つて居るから、此三日太平記を、出世太平記とも云ふのであるかと思ふのである。併し書下しの役場は豊竹鐘太夫と聞いて居るから、庵主は先づ此段を鐘場として修業したのである。総ては先覚者の注意を待つの外ないのである。
 元来此鐘場と云ふ風は色々音遣ひの癖もあるそふであるが、先づ第一に「間」を出来る丈け大きく明けると云ふのが、逃れる事の出来ぬ条件であるとの事である。故に十種香の段も、近八も、喜内住家も、此嘉平次住家も、太夫も三味線弾も、出来る丈け大きい「間」で運ぶ事である。送りを語つたら、「ジヤン」と聞いて、大きい「間」で大きい声で『跡には』と「ハルフシ」を(*に)語るが、決して「廻し」てはならぬ、『ワア……』と産字を引いて「ハネル」のである。夫から『心』とは最も「下」の音の沈んだ声で、『五月闇』と「中」に「カワリ」で「カブル」気味にて音を遣ひ、又直ぐに『迷ヨーーヲひはぐれし、我子の――ヲヲ、噂さ』と運ぶのである。『余所には聞けど』と止まつて、『とや角と』と「ツメ」て「ジヤン」と聞いたら『察(*案)し入つたる』と「本ブシ」に煮へるやうに落付いて語るのである『立帰る一作が』からは、全く気を「カヘテ」さら/\と運ぶのである。『我家の内』と云つたら「息」で「間」をあけて、「中音」で『見馴れぬ女の只一人、しかアーーも』と「モツ」て『愁に沈む体』からサラ/\と、夫から、『戸口に伺ひ立聞く共』を「フシ」に語るのであるが、此鐘場は「フシ」になつたら、総て『タチギ、ク――ウ、トーーヲーー、ヲヲーーヲモ』とドツシリ、ハツキリと煮へ込むやうに、遺憾なく語るのである。「ジヤン」と聞いたら、又「カワリ」て淋しく綺麗な音を遣つて、「アシ」をかへて運ぶのである。夫から「詞遣ひ」は早くも遅くも、最も丁寧にハツキリと「間」を考へて語つて、夫が決して仮名にならぬやうにヲツトリと情合が浮出て、聴衆に呑込めるやうに云ふ事が第一である。夫で音遣ひでも決して先の文句に移らぬやうに、一つヅゝ丁寧に運ぶのである。或る時庵主は大隅太夫に、
「お前は、三日の九を語つたか」
と聞いたら、
「ハイ語らぬ事は厶りませぬが、私共のやうにガサ/\した、語り口に修業をしました者は、アンナ、ヲツトリとした物は中々語りヅロウ厶り升」
と云つて居た事を覚へて居る。故に鐘場と云ふ物は、何も六ケ敷い風はないとしても、「詞遣ひ」と「間」を大きく、抜けぬやうに、ダレヌやうに語るのが、中々一通りや二通りの修業では出来ぬのである。夫には「地中」や「地色中」などの音遣ひを、最も丁寧に反覆して修業せねば、鐘場にはならぬ。甚だ手易いやうでも浄瑠璃を講釈のやうに語る事になるから困るのである。此さつきの一人言は、最も丁寧に音遣ひに念を入れて修業をして、『声をも立てず』の「スヱテ」まで収まつたら『始終の様子』から又気をカヘテ、一作を語るのである。夫から一作とさつきの兄弟の詞の遣り取りが、又一ト修業である。夫が済んで『ハアツと驚くさつきが胸に、ひつしとひゞく陣太鼓』からは、三味線も太夫も「息」の競争である。大きく早く、ネバツて弾く『只鉄桶の如くなり』と「フシ」に太収まりに収るのである。夫から「チンツン」と聞いては『さつき』が又「カワル」のである。総て浄瑠璃に「カワリ」と云ふ物は六ケ敷物となつて居て、三味線も太夫も、 一生苦労とする事ではあるが、此鐘場の「カワリ」と云ふ物は又格別に六ケ敷物である。只だ腕達者、口達者丈けで語つて居ると、夫がモウ風にならぬから、滅茶/\になるのである。「カワリ」も一つ/\違ひ、「息」も一つ/\に違ふのであるから、何にしても覚へて仕舞つた太夫でなければ語れぬと心得て居らねばならぬ。よい加減では決して遣れぬのである。又「ノリ間」にも一つ/\修業する事である。夫から嘉平次の笑ひは、此段の山であるが、夫は意味を持つて出来る丈け小さく、大きくさへ笑へばよいのである。只だ厄介なのは、久吉の品格を語る事が六ケ敷のである。夫が十分に語れたら、後は其太夫と三味線弾の力次第で,普通の浄瑠璃となつてよいのである。