(七十八) 夕霧 伊左衛門 廓文章 吉田屋の段

 此段は、元来大近松作とも聞いて居るが、此名霧(*夕霧)と名題を打たる作物が数多ある為め、何れが何うやら捕へ所が更になく、随つて此段の年代等も分らぬのである。伝説に、
「京都島原に名霧(*夕霧)と云ふ傾城あり、絶世の美人なりしが、佳人多難の諺の如く、甚だ不仕合せの運命に弄ばれし女にて、父一人子一人の境界なりしが、幾多の艱難を嘗め、トウ/\親の為めに遊女にまで身を沈めし後、其父に死別れ、奉公の中にも不仕合せの事多く、止むを得ず、大阪の新町に鞍替えなせる中に、藤屋伊左衛門と云ふ豪商の若旦那に思はれ、其の情交日に厚く、遂に二人の中に一子を産け、間もなく伊左衛門が靡禄零落の後、夕霧は病死なし、伊左衛門は夕霧との情交を忘れ得ず、死に至るまで不犯無妻の境界にて終り、其中娘は生長の後、大和街道にて夕霧茶屋なる物を開きしに、甚だ繁昌せりと」之を聞いて狂言師某が戯作して芝居に掛け当時の名優藤十郎なる者が、伊左衛門に扮して上演したりしに、大当りにてトウ/\十回も繰返して此狂言を演じた。夫を後年大近松翁が筆に載せて書下したとの事である。
斯る訳故、諸説紛々として、年代も作者も、此を語つた太夫も、役場も、庵主には更に捕促して書く事が出来ぬのである。庵主は此段を二十年斗り前に、大阪文楽座にて竹本摂津大掾と野沢吉兵衛の演ずるのを聞いて、其音譜の幽温にして高尚なるに驚き、浄曲中にては捨て難き物と思ひ、早速五代目鶴沢仲助を派遣して稽古に遣つたが、大掾は非常に喜び、仲助を自宅に宿泊させて、熱心に稽古をして呉れた。其後庵主が下阪して親しく大掾に就いて、此段を稽古する時、彼は曰く、
「私は此段を四十五年振りに語りましたが、上演の前に興行師や贔屓の旦那客からも、度々御注意を受けました。夫は、外に語る物がなければ仕方もないが、聴衆の耳馴れぬ物を語つて、受けが悪るかつたら、興行師にも旦那客にも、相済まぬではないかと申されましたが、私は長年当座に出勤しました余徳に、ドウか受けが悪ふても一度は語らせて貰いたう厶り升、夫は此段は恩師三代目吉兵衛師が、一通りならぬ苦心をして、此段を修業して私に教へて下さつた物で厶り升、其上に今の江戸堀吉兵衛は其弟子で厶い升のに、此の段を知りませぬから、私が達者な中に吉兵衛丈になりと伝へて、師恩を忘却せぬ験に致したいと思ひ升からと、願ひまして出しましたら、直ぐに東京の貴下様が、態々仲助を出稽古に下して下さいましたので、私の思ひの念が届まして、コンナ有がたい事は厶いませぬ。貴下様が態々お稽古に人を下された咄しが、大阪の評判になりまして、斯くの如く日々大入で厶いまして、当地の旦那衆も興行師の方からも、色々と賞与の挨拶が厶りまして、此様な喜びは厶りませぬ。私は早速一昨日師匠の墓参りを致しまして、心から恩師の霊に咄して参りました。併し旦那は四分の調子で「三上」を押へれば御難儀なお声で、コンナ物を私にお稽古なされてドウなさるお積りで厶り升か」
「夫はお前の咄が間違つて居る、芸道と云ふ物はドンな片輪でも修業が基である、俺の弓の師匠は左手が曲らぬ片輪で弓術は天下の名人である、お前も声では俺と反対ではあるが高い声の片輪である。表の一本や七本の調子で「ヱの譜」から「サの譜」まで繰り上げて、マダ声が余つて居る、夫で沓掛村や大安寺堤を俺に教へたではないか、夫はお前が修業と鍛練の結果である、声は出来合の物で天性である、修業と鍛練とは其天性を矯める力の事である、組太夫や大隅太夫は、先代の御殿や十種香や阿波十は知らぬかと云へば矢張り知つて居る、語れと云へば何時でも語り、又我々にもチャンと稽古もして呉れる。俺は浄瑠璃を稽古するので、此夕霧と云ふ浄瑠璃を覚へたいのである、決して之を語つて人に賞られやうとか、太夫になつて此で金を儲けやうとか云ふのではない、ドウかそんな事を云はずに教へてくれ、仲助にお前が稽古して呉れたので、一通り聞いては居るが、此から太夫の音遣ひと足取と腹構へを覚へたいのじや」
「私は心から恐れ入ました、夫では今晩から毎晩十一時までお稽古を致し升が御辛捧が出来升か」
「人に物を習ふのに教へる人から負けるやうな事では、習ふのではないと思ふから、安心して教へて貰いたい」
と云つたので、稽古を始めたのであつた。夫から段々咄を聞くに、此段は昔時殆んど六七十年も中絶して、世間の芸界から消滅して居たのを、京都の前の鶴沢友次郎が之を嘆いて再興はしたが、一向に世に用ひられなかつた。然るに三代目吉兵衛(*?)が三味線弾の亀次郎と云ふ即ち摂津大掾を、太夫と引立てるのに、先づ南部太夫と云ふ名前を与へ、之に色々浄瑠璃を教へて見ても、何様小男で声が小音である事から、此声に合ふ物を始めに教へたいと思ひ、風斗此夕霧の事を思ひ出し、友次郎の死後に誰が其教へを受けて覚へて居るであらうかと、京都の方を色々と穿鑿したが、誰も覚へて居る者がなく、或る古老の人の咄に、祇園の芸者で八重吉とか云ふ者が、友次郎に此夕霧を稽古して居るのを聞いた事があると聞いたので、其八重吉の行衛を探したら、大阪長堀の裏店で今稽古をして居るとの事で、吉兵衛は菓子折一つを提げて、長堀の裏店に尋ねて行つたら、三尺斗りの長露路の行止りに四畳半斗りの長家に、七十斗りの老媼が稽古をして居るので、名前を尋ねたら夫に相違ないので、丁寧に礼儀を述ベ、扨夕霧を友次郎師にお稽古しやつたと聞ましたから、ドウか一遍聞かせて下さいと頼んだら、其老媼は吉兵衛を普通の稽古人と思ひ、今貰つた進物の礼心に愛嬌を翻し、
「私がお師匠さんにお稽古をして貰ふたのは十八の年頃の事でおますから覚へて居るかドウか分りませぬが、分つて居る丈け遣つて見ませう」
と云つて弾出した。夫が瓦色に汚れた三味線の皮で、飯杓子のやうに耳の摺れた撥であつたとの事。之を聞いた吉兵衛は懐にして居た本にサッサと音譜を書入れ、厚く礼を云つて帰つて来たが、之を基としてアノ日本一の名人の蒸溜器に掛けて煮じ出した朱章、此れが今回大掾が教へられた夕霧であるとの事である。故に此夕霧が吉兵衛によつて世に行はるゝやうになつた。以上の咄を聞き、堂島の吐月と云ふ旦那衆が、此吉兵衛の控本の表紙に「瓦色庵飯杓子」と書付けた。吉兵衛は後に其下に「師より三代目野沢吉兵衛へ伝授」と書入れて所蔵して居たとの事。其後其八重吉婆さんは、此段が流行するやうになつて、自分の所に聞に来たのが、今満天下に名人の評判ある野沢吉兵衛師であつたと聞いて、禿た頭より汗を流して、
「私ドウしよう、アノ方が吉兵衛はんでおましたか………恥しー」
と云つたと云ふ一つ咄もあつたとの事である。名人吉兵衛の芸道に熱心なるも、摂津大掾の師恩を忘却せざるも、庵主は之を双美として、聞いた丈けの事を書いて置くのである。其後鶴澤仲助は之を東京の旦那方に教へたので、掬月、華山、竹洗、鷺洲、新高等の紳士連が、盛に此段に興味を持つて呶鳴ので、女芸人としても呂昇や素女も仲助に習つて講座に掛けるやうになり、夫から義太夫芸者等も座敷芸に、之がなくては物足らぬ事となつて来たので、今日此段の旺盛を見るのである。尚ほ書きたい事も沢山あつたが、全部先年の震災で調べた物が焼失したので、此位の記憶丈けにしておく。
 扨て以下は大掾の語つた床本に因つて書くが、
○『恋風や』の夕霧の出からは、常盤津の譜が幾所も這入つて居るやうであるが、夫が常盤津にならぬやうに語らねばならぬ。
○教へ方、習ひ方に因つて、総て非常に「ネバッ」たり「足」が早くなつたりするが、夫は両方共駄目である。総てコンナ物は極り切つた「間」があるから弾く方も語る方も、此段には「間」で腰をチヤンと極めねばイカヌのである。
○詞に一種の風があるから、夫を克く聞いて気を付けねばならぬ。
○『冬編笠』よりは総て四段目の風を忘れてはならぬ。「一」の音と「ギン」の音が極まらねば、外の音は遣へぬ事となる。
○『花は嵐』の合の手は、お半長右衛門の道行と同じやうであるけれど、夫がウカ/\して道行風にならぬやうに語る事。
○『喰ひしばる』と云つて、寒気を漲らせる為め、『ホウ/\/\』と、凍る手を息で吹くやうな「間」があるが、夫を『ホ、ホ、ホ、』と拍子付ではならぬ、『ホーーッ』と云ふ中に「間」になる事。
○『鼻に扇の横柄なり』の一句でトンと伊左衛門の品格が定まる事。
○『昔は鎗が迎に出る』の「文弥」の音遣ひから、『編笠の中の』までの「林清」の節、音遣ひが、品格を主として語る事。
○総て「スヱテ」の節に気を付けて、屹度四段目に語る事。
○『夕霧文章』になつては早くなつてもダラ/\してもイカヌ。早く遅く互ひ違ひに、足取が生きて居ねば何にもならぬ。
斯る模様専門の芸風故、中々筆の先にて書く事は、最も困難であるから、教へる方も習ふ方も寸分の油断なく修業すると云ふのは、此段の事であると思ふ。