(七十七)義士忠臣蔵 本蔵下屋敷の段

 此外題は、嘉永後、安政か、明治の間に出来た物と思ふ。其作者と年月は解らぬのである。語り始めの太夫も誰だか解らぬ。其中解つな(*た)ら又書く事にする。一体此段の世間に流行する事は、非常に盛んな物であるが、今日までマダ一度も感服するのを聞いた事がない。ナゼなれば太夫の語り風は何でもよいとして、西物か東物かが解らねばならぬ。夫から三段目物か四段目物かの弁別はなくてはならぬと思ふ。又夫等を兎も角としても、庵主は余り流行するから参考のため、一寸気付いた事丈けを書いておく。
 庵主は此段の手の付け方は、西風で三段目に語つたが好いと思ふ。其積りで庵主は、全く己の意見として述べて見るのである。夫は模範とすべき、太夫の語るのを聞いた事がないからである。ドウか斯道先覚の師の教へを聞たいと思ふから、茲に一巳の意見を、先づ発表して置くのである。
 『人知れぬ、ウーーウーーウ』と「地色」に云つたら、『思ひこそのみ』を最も静かな音に「カヽツ」て『わび、イイシイーーケ、レーーヱーーヱ』と慎重に振り切るのである。『我身ぞ――ヲ、知る』と詰める事。『三世の縁も浅サーーア草の』と腰強く語るから、『片はら町にしつらいし』と「ノル」事が出来るのである。『忍びとヲヲヲ、「チリガン」ヲン、「ツン」見へて』と「ハズミ」に語るのも、三段目風に能く「ノリ」て、「ネバリ」を持つて丁寧に運ぶのである。皆人々の語るのが、三味線も太夫も運びが砕けて居るから、三段目にならぬのである。「ツトン、ジヤン/\」と「ノリ」て『座敷へ舁込む(*かきこむ)』との模様が語れて、夫から『あらん限り』は「地色」にならぬやうに『アヽラアーーアア、ンーーンーーンンンン、カキリノ』と「ヲロシ、ガヽり」にシツトリと「フシ」を大きく、落付くやうに結びを付ける事。夫でないと『御用すきにや』と「カワラ」れぬのである。『コリヤ、斯々と、耳に口、イイイイ』と云つて、絃に四ツ障はらせて、『成程、心得ました、アヽコレ、シイーー、 スリヤ……………お姫様の乗物は』と軽るく、『ヲヽサ』となるが三段目としては都合がよいと思ふ。夫から『必ずぬかるな、心得ました、アヽコリヤ、……密かに/\』となつたがよいやうである。以下総て「ノリ地」は「間」を出来る丈け大きく語る事。夫から三千歳姫の一人舞台になつて、大分臭い処もあるやうなれど、此等は譜節者に敬意を表して、素人だてら何事も云はぬがよいと思ふ。夫から『是が忠義の仕納めかと、ヲヽヽ、ヲヽヽ、ム………、ヲ………』「チチン/\/\」となる「ウレイ」に語る所が、躄瀧の段の枕の『カアツーーウ、ゴヲロヲヲヲヲ、ヲーーヲヲ、ヲヲヲ、ヲヲヲ、ムウーーヲヲ………』此は「サイガイ」と云ふ節にて、片輪者に付ける譜との事。夫を皆此『仕納めかと』に語る人があるから、一寸書いて置くのである。先年或る大太夫で、講釈の七ツ目、喜内住家の段の、おりゑが『戸のすき間より顔差のぞき』の「ウレイ」に此「サイガイ」を語つて居る人があつた。庵主は三味線弾でないからシツコクは云はぬが、此等は皆三味線弾によく尋ねて語る事。「三重」から奥の運び「文弥ガヽリ」は「景地心」にて語る所と思ふ。『御前へこそは、引かれくる』を、丁寧に収めて、『斯と知らせに』と云ふと、大変舞台の据りがよくなるやうに思ふ。『褥の上に座を設け』と「色」に云つて「息」をツメて後、『イヤナニ本蔵』と云ふ。総て此「息」にて、上品に云へば、若狭之助の詞になる。此「息」が総ての緩急を産み出す「息」であると思ふ。『刀ひらりと若狭之助』と云ふ人が多いが、アレは『すらりと』であらうと思ふ。『しづ/\座に着』の「フシハル」は尤もユツタリ弾かせて、ユツタリ語る事。是から全く若狭之助の「カワリ」となる。夫がハツキリ語れねばイカぬ。夫から『開けば高野師直が』から「大ノリ」に「大間」に語る事。二上りの歌の『馴れし』からは、尤もサヘ/\と語る。『送る』から『氷のくさび』までは、憂を含んで語る事。『朝げの嵐』から『うかれし事も』までは,又サヘ/\と語り。『最早』から又「ウレイ」を含んで『柴小船』と語つて、よく「息」を考へ『本蔵近ふ』と云ふ事。夫から『尽きぬ』からは、当り前の段切に語る事。