(七十五) 増補 生写朝顔話 四段目切 宿屋の段 

 此段は、嘉永三年戌正月(大正十五年をさる七十七年前)(*朝顔は御本に、嘉永三年戌正月として御ざりますが、天保三年に新作興行。(**番付省略))書下して、作者は山田案山子とある。役場は竹本重太夫との事。総て此義太夫節なる物は、元祖竹本義太夫が、貞享二年丑の年二月朔日大阪道頓堀西に、初めて人形操座の櫓を揚げて、世継曽我や愛染川を語つて以来、此芸の風格が極まり、其門下の名人雲の如く輩出して、各々懸命の修業をなし、而して其人に依り其性質に依つて、各々長短善化の優風を成して、トウ/\此重太夫の朝顔話を打止めに、其風が無くなつたと云ゝ得らるゝのである。此朝顔以後に出来た、本蔵下屋敷でも松王屋敷でも鎌腹でも、作の善悪と演芸上の難易は有るけれども、芸としては三味線弾が朱筆を打つた通り、太夫が力任せに語り通るまでの事である。此以前の外題こそは、彼名人が懸命修業の結果、己れ自身にも動かす事の出来ぬ、「音遣ひ」と「足取」と「間合ひ」と「詞訛り、地訛り」等の風格がチャンと極つて仕舞つて居る事は、彼能楽と同じ事である。夫を学ぶのが即ち芸である。其の人を芸人と云ふのである。若し夫を捨てて勝手に語るのなら、「ハルフシ」の一つも覚えて置けば宜い。「ハリマ」の一つも覚へて置けば宜い。「スヱテ」の一つも覚へて置けば宜いのである。
其他「表具」「説経」「道具屋」「文弥」「本ブシ」「小ヲクリ」「ウクオクリ」「詞がゝり」「節がゝり」「中落し」「大落し」「ヒバリ」「海道」「地色」「景事」「冷泉」「相の山」「三ツ入」「九ツユリ」「節落ち」「文弥落ち」等、斯道一通りの節を一つ宛覚えてさへ置けば、何でも義太夫節は語れる訳である。
 然し此芸はソンナわけ合のものではなくて、その実際は一外題/\に付いて、組立が違つて居る事を呑込む事、 一段/\について其役場太夫の命懸の修業が、ピッタリ極つて風を成して居る事を呑込む事、夫から其文章によつて太夫の心構へ腹構へが違ふ事を呑み込む事で、所謂「暗ら闇を明るく歩行座頭かな」と云ふ程の容易に人の真似の出来ぬ芸をして、復自分独特の風をも残すのである。夫で修業を為ねば芸人にはなれぬのである。夫で真似の出来ぬ事をするから、高い報酬も貰へるのである。夫に今の芸人は、何でも一つの節のやうに聞へる。否な其一つの節さへ満足に浮出る事が出来ぬのである、否節処ではない、一切が減茶苦茶である。夫なら芸人ではないのである。夫では只の節を付けて本を読むのである。聴衆が受けさへすれば、其節を浪花節で読んでも差支へはないのである。夫を暇と金とを潰して聞く人、此が人間中の一番馬鹿者である事になるのである。故に此朝顔までは、ドウしても重太夫の風を修業して語らねばならぬのである。庵主は曾て聞く、此竹本重太夫は芸の天性は下手の方であつたが、芸風は筑前掾の風と、錦太夫の風とを修業した、正しき芸人であつたとの事、夫に声の修業が仕てある為めに、 一種の重太夫風となつたとの事である。
 先づ枕の『暫しは旅と綴りけん』の一鎖りでも『綴りケー、ンー、ンーン』と切り方が極つて居て、其後に此の『ンーン』と「ハリ切り」で振り切る、又音も極つて居る。夫から『昔の』と云ふ「ハルフシ」の下廻しも『ムカシノーオオオオ、オーオ』も決して「二」に下つてはならぬ。夫には「ムカシノ』の、『シノ』の二字を一寸「ハリキリ」に入れて持たなければ「二」に落ちて来るのである。夫から『オオオオ、オーオ』の『オオオオ』を順に正しく下げて、『オーオ』を屹度「三」の譜で振り止めるのである。此等が重太夫の風であつたと聞いて居るのである。『筆のあと』はドウしても「二」の「真ギン」に据はらねばならぬ。「ジャン」と〆めたら全く別の心で、尤も落入るやうに淋しく、『つれ/\侘るタービの宿』と語る。『夜ンノヲふすまの隙もりて、風に、またゝく、燈火の、影も、淋しき』と運ぶ、「本ブシ」まで太夫の腹に其境界を描がいて語る事が大事である。モウ此枕一枚を聞かされたら屹度聴衆が其気分に引入られて、ハーと納得する事にならねば、此四段目が語られたとは云はれぬのである。夫から朝顔の出になつて、庵主が大掾に就いて此風を学ぶ時『娘深雪は身に積る嘆きの数の累なりて、塒失ふ目無し鳥』と運ぶのに、大掾の運び方が何とも云へぬ妙味が有る故、
「師匠お前の『娘深雪』からの運びは、私がドウ考へても其人形の拘へ気味が取れぬがナア」
と云つたら、大掾は満面に笑みを浮べて、
「アンタ夫にお気が付やうになんなはつたら申し升がナア、此所は私が東京で之を語り升時、三代目吉兵衛さんが私を呼付けて、コレ南部、アンナに朝顔の出でお客に受られてはドモならんがナア、三味線が弾て居られはせぬ、少し物を考へて語つてはドウじやと、云はれましたので、ハテ難儀じやナア、ヤッとお客が受けて呉りやはるやうになるとイカンと云はれると、始終苦労にして語つて居ました処が、其後師匠春太夫に聞いて貰ひました時、『娘深雪は身に積る』と申し升とモッとサラ/\と語りんかいなアと云れ升ので、其積りで語り升と、ハーア足が悪いがな、ソウ只云ふてはイカンがなアと云はれ升。サア、ドント行詰りました。夫が苦労の始まりで、永い間心に離さず苦労斗り致しました処が、其後安達の三段目を語るに付、師匠に聞いて貰はねばならぬ事が出来ましたので、夫を師匠に頼み升と、師匠は何とも返事をせず、ア、お前は朝顔の出はドウしたかと云はれ升から、ヘイ一時も心に離さず凝つて居升と申しましたら、ソーカ一寸遣つて見いと云はれ升から、又ハット思ひまして、扨ドヲ語つたら宜いかと思ひまして、何でソンナに凝つて苦労して居たか、可哀そふにと師匠に思つて貰いさへすれば、夫で宜いと思ひまして、『娘』と一寸止りまして『深雪は身に積る歎きの数の累なりて、ネグーラ』と持つて『失ふ目なしドーオオーリ』哀れの心持専門に語りましたら、マアそんな心持で語れば宜い、総て朝顔でも、袖萩でも、初めて舞台に出る時に、お客様が初めて人形を見て、アーア哀れな女じやナア、可愛相な身の果じやナア、と思つて呉りやはるやうの心持ちで語るのじや、其算りで安達の三を克く読んで語つて見イと云はれました。其時私は又ハット思ひました、私はお客さんの事などは思ひませず、師匠の前を通過しなかつたら大変じやから、師匠にさへ私が不憫と思つて貰つたら宜いと思つて哀な心持を持つて訴へたので厶り升、夫が当りましたので、多くの語り物の上に沢山の発明を致しました。此等の心持が本当の前受けで厶り升、今時の前受は考へ所を取違へて居り升。アンタお声は悪ふ厶り升が屹度ダンナイから、其心持で御修業なさりませ」
と云はれた事がある。大抵の事は是で分るのである。夫から五行本に『危ききその』とあるが、アレは『危く木曽の』と語らねばイカヌ。夫から『こがれ初めたる恋人と』「チン」と「三上」で受けさせて、『かたらふ間さへ』と「ハリ切」から出て「三上」に廻つて「三」を放した音に戻る事、是を忘れてはならぬ。是が筑前風即ち重太夫風の大事の所である。夫で、「テ、テ、デン」と呼ばれて『夏の夜の』の『夏』は絃より高く出る、『短い』も高く、『所尋る』も高く、『手便』も高く、『思ふに任せぬ』も高く『国の迎ひ』も高く、総て絃に付かず語る。夫から『迷オ、イイイ』と持つて、『イデ』とツメル事。夫から『悲ナァアーアアシイ、サアーアア』「チン」『アーアア、 オ……』と運ぶ事。「悲ナーアアーア、シイサア、アーアア』になつてはイカヌ。夫から三重の『追ふて行』は是非「サグリ三重」に語る事。『張り詰めし』が皆イカヌ。『張り』と止り『詰めし』とツメネば、「チン/\/\」が「ツマ」らぬ、ソコで『力も落ちて伏まろび』が「カワッテ」息で止つて「ヘタタッ」て語れる。其時に浄瑠璃が一杯になるのである。夫が聴衆も一杯になつた時である。「文弥落し」から先きは「落合の心持で落合に語るな」と云ふのが教へだそうである。『名のみ流るゝ大井川「チン」水の泡とぞ、なりにけり』を気を付けて、浄瑠璃をお仕舞ひにして、夫からは本当の段切を語るとの事である。