(七十四)忠臣義士伝 弥作鎌腹の段

 此段は、嘉永の頃(大正十五年を距る七十七八年前位)倉田千両と云ふ人が、素人の名人十三(とさん)と云ふ人の為めに書いたとの事。夫を又三味線弾の亀之助と云ふ師匠が、此十三の悪声に合せて、譜節を付けて、其弟子の亀次郎、即ち竹本摂津大掾をして、此十三を弾かせたより始まりたりとの事。其後竹本大隅太夫が、大掾に筋を聞かせて貰つたら、大掾が、
「お前は一度、十三さんに稽古して貰へ、ソースルと又別に語り処が分ると思ふから」
と云はれたので、早速十三に頼んで稽古をして、工夫に工夫を凝らし鍛練に鍛錬を積んで語り出して、斯く今日まで流行するのであると聞く。
 庵主は曾てマダ大隅太夫を知らず、随つて贔屓とも何とも考へのない時、大隅の此段を聞いて驚いたのである。浄瑠璃も此の如き架空の構想を、写実的に生動させねばならぬと極まれば、決して模倣の出来る物ではないと思つた。総て一句/\の息遣ひと云ふ物が、玄妙の人情に触れて、聴衆の心を襞(つんざ)くやうに感動せしむる事は、何物も他に比較物がないのである。
 先づ「ヲクリ」を語つて、「トン/\/\/\ジヤン」と「シメタ」あと『後に弥作は只一人』と云つた時、ヲヤ是は浄瑠璃か知らん、何だか事実の咄のやうじやと思ふ程の息込みがあつた。『思案十方に暮れけるが』と「スヱテ」を語つた時も、ズーツと引付けられて、何だか自分が非常な困難にでも遭遇したやうな気がした。夫から「ハアー」と云ひ『無理とも云はれず』と語るのが、 一句/\と引込まれる気に計りなるのである。是は何でもマダ語らぬ前から、既に太夫の腹構へと息組から出る大隅太夫式の電気にでも感染して居るのに相違ない。『斯くと様子は白台に』と云ふ「道具屋」節の所から『芝村七太夫参つたり』と聞いた時は、サア大変な事件が是から持上るに相違ないと、心配を始めたのである。『ソコニ、六ちや九ちやな訳が厶りまして』と云つて居る時は、心に恐ぢ気を持ち、気味悪るき笑ひを浮べ、真ツ正直な百姓弥作の心配が語り出された。其有様は何と云ふ恐ろしい、心理的の写実であらう。芸道の極致も、勉むれば斯くまでになる物であらうかと感歎したのである。夫から七太夫の詞遣ひと云つたら抑揚、頓挫、緩急、強弱、縦横に働いて、夫が恰も竪板に水を流すが如く運ばるゝのである。夫を受けて応答する弥作の心理から、湧き出る詞遣ひと云つたら、唯々手に汗を握る許りである。夫を畳上げ/\して、終に七太夫が『手鎗投げ』云々の文句となり、『畦道を行く七太夫が背骨をドツと』から『くすぼり返つて死してんけり』と語り、「息」を詰めて『ハヽツハヽアーー、モウ叶はぬ』と弥作が気抜けになる息遣ひと云つたら、実に筆にも口にも総て形容丈けでは尽されぬのである。
 元来此段は、作としても文章としても、極々粗雑な物であるが、全く芸人の鍛練と苦心とにて、此の如く破裂するが如く現実化して生動すると云ふのは、其演者たる大隅の力量が、慥かに認識せらるゝのである。庵主の考へにては、嘉永以後の作としては、本蔵下屋敷、松王屋敷等あれども、此段の如く深刻にして、峻峭なる物はないのである。夫は作に非ずして、大隅の修業鍛錬の産物であると思ふ。そして大隅が斯くまで芸道に働き得たのは、総て世人の粗略に打捨てゝ居る、古浄瑠璃の風と住太夫の風とを、故師団平より、抜ける程叩き込まれた結果であるに相違ないのである。
 抑も古浄瑠璃の風と云ふ物は,斯道に片時も忘れはてならぬ風であつて、是がなくなれば、義太夫節は今の女太夫のやうな物になるか、常盤津か清元のやうな物になつて仕舞ふかである。夫を喰ひ止めたのが、住大夫と三代目此太夫である。其故にこそ彼の三代目此太夫は、此風を後世に残さんが為めに、大阪堀江市の側に芝居を建て、師匠筑前掾の残した古浄瑠璃の風を捉へ、合邦や、質店等を始め古浄瑠璃の風を主として、専念に語つたのである。此風は団平の弾いた春太夫までは、兎や角伝はつたが、其後が滅絶するので、大隅を捕へて之を稽古台として、ウンと叩き込んだのである。夫が一方大隅の大不幸となつて、生涯人気立たず、難行苦行をした因とも成つたであらうが、又一方大隅に此修業がなかつたらば、鎌腹を斯くまでに語り残して、後世の敢て企及し得ざる程の物は出来なかつたであらうと思はるゝのである。