(七十二)箱根霊験記躄の仇討 十一冊目 いざり瀧の段

 此外題は,享和元年酉の八月(大正十五年を距る百二十六年前)司馬芝叟等の作にて、之を上場したと思ふ芝居は、調べても分らぬのである。(*又書下し番付には、享和元年酉十一月三日より 道頓堀 東芝居。)役場は竹本綱太夫であると聞く。朱章は一切四段目の手が付いて、西風の純粋なる物である。
 予ても云ふ如く、此綱太夫場と云ふものは、阿漕でも、鰻谷でも、酒屋でも、近九でも、一種動かす事の出来ぬ困難な風のある物故、其六ケ敷割合に世の中に流行せぬのである。其内酒屋丈けは後年靭太夫と云ふ、腕利の太夫が努力熱誠の結果、足取と、詞の運び方を面白く語つたので、非常に世に行はるゝ事とは成つたが、失張り綱太夫場は決して崩れては居らぬものである。即ち太夫は飽まで陰気に語る事に努力し、三味線は飽まで陽気に弾く事を研究して、夫がカラミ合つて聴衆に無類に派手に聴ゆるやうになると云ふのが、綱太夫一生の努力であつたとの事であるから、決して一節や所々の間拍子が、其風に限られて居るのではない。故に摂津大掾も大隅も、庵主には終に一段も稽古をして呉れなかつたのである。只だ一段全部の講釈をして、庵主等を威かす事計りで、死別れて往つたのである。其上是に屹度心得て居らねばならぬ事は、詞の研究である。綱太夫場に限り、節より詞が困難である。夫は先づ詞の口捌きに一点の澱みなく、立板に水を流すやうに語る中に、一種云ふ可からざる境遇と情合とを語り尽すと云ふのが、殆んど、一定極つた風じやそふである。彼の阿漕の如き、次郎蔵が『扨は桂平内兵衛様の御子息平治様かや』から段切に至るまでの詞遣ひは、驚きと、敬意と、懺悔と、忠誠と、決意とが、言々語々の中に横溢緊張して、一点の凝滞も其間に止めざる語り方は、一通りの修業にては譚り尽す事が出来ぬと云ふ事。是は斯道に心ある者は、之を聞くと直に、実にソーダナアと、共鳴同意の出来る困難さである。其他難易はあるが、鰻谷でも、仕舞掛けの骨桶の辺から、八郎兵衛と銀八との詞遣ひ、捕手の口捌きから四ツ橋差しての切までの、切捌きの如き、近九の御注進の変りから、高綱の詞遣ひ等、酒屋でも、僅かなながら、十内の詞遣ひの、甘く言へた者がないと云ふが如き、皆意味は一様である。
 大隅が角座の素浄瑠璃で酒屋を語る時、
「十内の詞が六ケ敷と聴いて居升から、或ゐ先輩(誰だか忘れた)に聞ましたら、床に上つても、気になつて語れませなんだ」
と云つて居た。個様な訳故、此躄でも仕舞掛けにある、筆助の詞が一つの修業物である。故に綱太夫場と云ふ物は、先づコンナ風に研究をする物と思はるゝのである。
 初め枕に「ツン/\」と弾いたら、『忠孝』と語り出す事が中々の困難である。「シヤン」と弾いたら決して「シャン」に付いてはイケない、「シヤン」は派手に弾て、『身にも因果』と「ハリマ」は極々陰気に語る事である。「本フシ」を陰気に語り、又『飯沼を』ユツタリと「ノツテ」語る。『乗せて綱手を』も「足」が乱れてはイカぬ。夫から『勝五郎』と語る節は、「サイガイ」とか云ふ節で、盲人とか躄りとか必らず片輪者に限つて付ける手だそふだ。夫で心を屹度〆めて、其心で語らねばならぬ。或る文楽座の太夫は、忠臣講釈の七ッ目で、『おりゑが戸の隙間より差覗き』を「サイガイ」に語つて居た事があつた、是は其太夫が、天性下手なのか、ソーではない、只だ習ふべき事を習はずに、無茶で語るから、コンナ無茶になつて、「おりゑ」はお蔭様で貧乏をした上に、片輪者にまで為さるゝのである。『車の助け』から「足」が変つて、本舞台になるのである。『箱根颪』の「ギン」の音は「ニジツタ」程、高き処から出るのである。『漸』「シヤン」も又派手に弾き、『庭に』を極陰気に語るのである。夫から一番六ケ敷のは、初花が『紅葉のあるのに雪が降る、嘸寒かつたでござんせふなア』の詞が、昔から太夫の、一番気の張る詞である。膚薄な、身も震ふ声の中に、貞節の心に、張詰めた気が満ち、『嘸寒かつたでござんせふなア』は身も声も霜(*震)ふ思ひが満場に漂ふと云ふのが、語り方の原則とも云ふべき詞である。夫に答へる勝五郎の返事は、淋しい中に元気を見せ、直に情愛にからんで、妻を労はる心が、前に徹底せねばならぬのである。此等の主意を基として、最後まで無理のないやうに運んで行くのである、コンナ事を書けば限りはないが、大抵コンナ品物は、一息でも、鍛錬の積んだ極つた息を吐かねばならぬと思ふ。総て修業せねば、何も駄目になると思はねばならぬのである。