(七十一)絵本太功記 十冊目 尼ヶ崎の段

 此外題は、寛政十一年未の七月(大正十年を距る百二十八年前)大阪道頓堀若太夫座にて座元豊竹諏訪太夫にて開場し、作者は近松湖南、近松柳、千葉軒で、役場は豊竹麓太夫であると聞く。
 此人は大阪船場の鍋屋宗兵衛とて、鍋宗大尽と世に持囃やされた全くの旦那衆にして、音曲に堪能の聞へ高く、現に一中節「深草」の節付けは、此人であると伝へられたる位である。東の芝居が維持困難となつて、矢倉が傾く時、芝居が潰れるなら、俺が出て遣ろふと云つて、出勤したと云ふ、義太夫界で大天狗の元祖とも云ふべき人である。其癖名前は鞍馬山下の麓太夫と謙遜して、芸界に身を投じたが、其音声と云つたら、古今無比と伝へられ、「表の三本」で上がツカへず、「裏の三分」で下がツカへず、「ギン」の音と云つたらドノ譜からでも「ニジツタ」高い所から出して上品此上なく声量、腹力共に剛強にして一人も敵する者なかりしとの事。無論其頃の事とて簾内で語つて居たが床側に茶棚を据え、銀瓶の白湯わかしを掛け、玉露の茶を入れて、切れ羊羹を菓子器に盛り、語る片手に茶を入れて呑み、光秀の出の前までは胡座をかいて語り、夫からヤット正坐となつて語り、夫で人情と云ふ物が溢るゝ斗りであつたとの事。後年清七や団平の如き八ヶ間し屋が出て、色々崩れた節を訂正補修したが、此麓場斗りは一撥も手を下し得なかつたとの事である。全く芸道に生れ付いた人であつたと思ふ。其風格が今日まで存続せられて麓場と云つて八ヶ間敷いのである。
 元来此段は剛壮憤懣の気で充満した光秀で、聴衆が泣くやうに書いた物である事を能く会得して、其他は光秀を泣かざるを得ざるよふに仕向ける、責め道具に配せられた人形斗りてある事を忘れずに語ると云ふのが太夫の一番大事の仕事である。
『残る蕾の花一つ』一輪の白牡丹がグッタリと萎んで居る気で、『水上げかねし風情にて』「ギン」の「ニジツタ」音で運び、『漸涙押止め』は涙を胸に湛へる気で語り、「トン/\/\/\ジャン」と〆るまで息を詰めて、「ジャン」で息を取つて、『母様にも祖母さまにも』と腹の底から涙で云ふ。『初菊が立聞く涙転び出で』を『マロビ、イイ、イーーイデ』と足を付ける心で運ぶ。『ワッと斗りに、泣き出せば』の「スヱテ」を大事に、「ナアキーイ、イイ、イイ」「ツトン」『イダセーーーヱ、ヱーバ』と産み字を一つも間違はぬやう語る、之等の息遣ひと、産字の「間」と「足取」と「音遣ひ」と「ギン」の音の癖と一つも引地をせずに運ぶのを、先づ麓場の心掛けと云つて宜からう。『二世も三世も』の語り方が皆悪るい。『二セーーモーーヲヲ』と語る事は好くない。『ニセモオーーオヲオーヲヲ』「チン」『サンゼーモ』「チョンチョン」(*「チョンチョン」は削除)『メヨオトジヤアト』と語る事。『討死とは』も『ウチーーイ』「チチチン」と「ヨビダス」事はよろしくない、『ウチーージニーートオワアーア』と成るべく切らずに語る事。『爽かなりし其骨柄』は『サワヤカァーーア、ナリシ』「チン、チンツン」と弾かせて、『ソノーーヲーー』と入れて、『コツーーウーーウ』と又入れて、『ガァーーアーーラ』「ツトン/\/\/\」と語る事。夫から総て東物には「地色」が禁じてあるから、「ノリ地」「詞ノリ」詞の字配りに、深甚な注意をして稽古をせねばならぬ。「ひつそぎ鎗」「チチン」『主を殺した天罰の』の一句は、ナゼ老母の述懐の中にアンナ譜が付いて居るかと云へば、此一段の主眼が、光秀の主殺しと云ふを道徳観の尺度として、深酷に戒めた文章で、丁度此所に至つて其主眼の文字に触れざるを得ぬ事になつた作者の意思を、譜節者が取つて朱章を下したから、手負の老女の繰り言中に、斯る派手な手を付けたのてある。故に演者も現代の無神経太夫の如く語らず、老女の繰り言の主意を前々から連絡の切れぬやうに腹に持つて、『主を殺した天罰の報いは親にも此通り』と語る事を忘れてはならぬ、夫を忘るゝと老女の云分やら何やら分らず、聴衆の手を叩く為めに呶鳴る事になるのである。操の口説の『此見玉へ光秀殿』からが、所謂「詞ノリ」と云ふのである。「詞ノリ」の口説と云ふ物は、節には語れ、謳ひはするなと云ふ教へを聞いて居る。夫で『お諌め申した』と語るのに『オーイーサアメ、モヲシタ、ソノトキニ』と絃に付いて語ると、謳ふのである。故に「オーイーサメモヲシタソトキニ』と素直に下らぬやうに「詞ノリ」に語ること。則ち咄しのように云ふ事、夫が絃に合ふ事にならぬ(*ね)ばならぬ。絃の方は一切太夫に構はず、極まつた譜の通りに弾きさへすれば、夫でチャンと芸になるのである。『思ひ止つて玉はらば』も『タマワラバ』と絃に付いて下げるからイカぬのである、『タマワラバ』と,下げずに詞の如く云ふ事。
 元来始めに云ふ通り、光秀で聴衆が泣くやうに書いてあるので、老女が死を以て訓戒し、妻が口説立てゝ諌め、伜が死を以て父の非行をなげいて死し、可憐の嫁が手負に取付いて泣立てるので、『流石勇気の光秀も親の慈悲心、子故の闇輪廻の糾にしめ付けられてコタへかねてハラ/\/\』とトウ/\泣くのであるから、此までの仕込が芸で、此の如く四方八方悲惨の情合で責め付けられる時は、光秀でなく夫以上の大悪人でも、其本然の性善に返つて泣くは、最も至極であると思ふやうに語る事が、此尼ケ崎を語る大主意である。故に『さすが。勇気の。光秀も。親の慈悲心』とネバッたら息を詰めて、親を思ひ『子故の闇』と語つたら息を詰めて、子を思ひ『輪廻のきづなに、しめ付られ』と大「ヘタリ」に息で「ヘタラ」して情合を聴衆に納得させて、後『こたへかねて』と語らねば、『ハラ/\/\』と大落しは語られぬのである。皆大落しでなく小落しである。否、乱脈落しである。光秀の泣く落しブシになつて居るのは一つも聞かぬのである。