(七十) 加賀見山廓の写本(かきほん(*ききがき)) 七ツ目切 又助住家の段

 此外題は、寛政八年辰の正月二十九日(大正十五年を距る百三十一年前)竹本愛蔵座元にて興行せし筈であるが左すれば、天明二年寅の正月二日、加賀見山旧錦絵を、江戸新太夫座で興行せしより以後、十五年目の作である。旧錦絵の方は、作者は容楊黛であるが、此方の作者は中村魚眼の筈である。役場は、竹本弥太夫か、竹本内匠太夫か、竹本重太夫か、竹本咲太夫か、調べて見ても分らぬのである。
 先年今の竹本(*豊竹)古靭太夫に聞いて見たが、風は政太夫になつて居る筈でござりますと云つて居た。夫から故名庭弦阿弥(**絃阿弥)も、矢張り、政太夫風であると云つて居た。左すれば、政太夫風で語るがよいと思ふ。
 先づ身売りの間を端場に語り、『泣く泣く別れ行』から切に語る事。
 それから『影見送りて』のところは、黒朱に、「地中」とあるが、『カゲエ………』「ツン」と受けて『見送りて、主従は』は、最も淋しく煮へるやうに語る事。「本ブシ」も出来る丈け底煮のするやう『長の夜』も息の続く丈け、シットリと云ふ事。夫から「テンツン」と弾く時、故人団平は底抜けのする程であつたとの事。ドンナ事が底抜のするのかと聞くと、前からの仕込が違ふとの事。先づ夫が十分に出来て、 「テン……ツ……ン」……『六ツト』と高く出て……『ショヤトヲ』と低く云ふ事。『ヘダアテエタア……アアア』と「ハッテ」……「テツツツ」……『アア……ア……ル…』「ツトン/\/\/\ジャン」と、少しも位落のせぬやう、則ち秋淋たる夜の気分が十分に漂ふやうに心掛ける事。夫から手負になつたら、太夫は一時も「コハリ」の音と「三上」の音を(*と)を遣ひ分ける事を忘れぬ事。三味線弾は「テン」と「ツン」と「トン」の「ウケ」を、決して粗末にせぬ事が、政太夫風の大事の事と聞く。『折から』と庄屋の出になつたら、太夫は「口捌き」専門、三味線弾は「撥捌き」専門に、修業を鍛練して、面白く語る事、弾く事。段切は又「時代」になつて語り捨てるとの事。又女房の口説は手負であるから、余りサラ付かぬやう、余りネバらぬやう、此丈けが加減物にて、三段目、四段目太夫の腕次第にて、手負を忘れぬやう、「フシ」付けの意味を忘れぬやうとの事である。昔大隅太夫が、此役の付いた時、清水町の団平が、
「大隅や、今度又助がお前の役に付いて居るが、お前語れるか」と云つた時、大隅ウッカリ、
「ハイ又助ならドウゾ語れるかと思ひ升」と云つたら、団平が、
「ソウカ、夫は結構じや、 一遍弾合せておこふかナ」と云つたので、大隅は本を持つて師匠の前に出たが、ドウした事か一口も云へぬので、何遍も/\遣り直して見ても云へぬので、席を下つて平伏して、
「お師匠さんドウかお稽古を願ゑ(*い)升」
と云つたら、団平が、
「此段は廓の写本の方で、七ツ目になつて居る、昔長門はんが、古人の風で稽古をして居やはつたのを聞かせて貰うた事があるサカイ、私も初役じやから、黙つて弾いて居たが、お前が古人の風で、独り歩行が出来るやうであつたら、私も安心するが、マダ夫は六かしい、私も調べて明日から稽古しますから、早やうから来なはれ」と云はれたので、大隅は大喜びをして、夜起きをして本を読んで出掛けた処が、『長の夜』で『長の日を暮らし』「テ……ン……ツ……ン」がヱライので、六ツも初夜も十時も十二時も過ぎる頃になつても其気分が浮かぬので、全身綿のやうになつたら、師匠が、
「私も修業じや、芝居でも弾く丈けは弾かねばならぬサカイ、精出して遣つトくれ」
と云はれた時は、お師匠さん、私はモウ一ツ別に命を持つて居りませぬ、アンタに弾ける丈け弾かれて、私が生きて居られますかいナ、と云ひたくなります、夫から手負でウンと苦しみまして、女房の口説が、早よすぎる、遅すぎる、夫では手負でない、息がわるい、間が悪るい、と申されまして、ヤツト初日の日に漕ぎ付けましたら、師匠が、 マヽ其位で語つときなはれ、又今度出る時にシッカリ稽古して上げるから、と申されました、此上シッカリ稽古をされましたら、私は屹度死にますジャロウと思ひました。
と咄して居た。庵主はコンナ品物に対しても芸人と云ふ者は、何といふ恐ろしい修業をする物であらうかと、其時から思つて居たのである。此咄しは故弦阿弥(**絃阿弥)、富助、仲助等は、皆知つて居たやうであるが、思ひ出した侭を書いておく。
 次に『五ケ年以前大殿には』は『当春既に大殿には』とし、また床本にある『天なるかな命なるかな』とあるを、古靭大夫が丸本の通りにして、『天なり命なり』と直して居るが、夫よりも『天命今ぞ思ひ知る』と直した方がよい。又床本の『大殿様とは露知らず』よりも、丸本通り『大殿様とは自刃の剣』と語つたがよいと思ふ。是丈けは庵主の注意である。