(六十九) 伊勢音頭恋寝刃 油屋の段

 此外題は、寛政八年辰の五月四日(大正十五年を去る百三十一年前)狂言作者近松徳蔵(*近松徳叟)が、之を芝居に仕組みたるが初めとの事である、(*伊勢音頭油屋、此外題も古き天保九年に新浄瑠璃興行、播磨大掾師門人 初代 大隅(百合太夫改。三根太夫再改)御存しの通、大和掾の前名は大隅掾に御座り升が、大隅太夫と名乗るは、此師を初代と申升。(**伊勢音頭恋寝刃作者山田案山子、天保九年戌七月二十五日初日番付省略))爾後之を床本に書直したるは、故豊沢団平ならんと思ふ。筋は甚だ不味いが、其節譜の颯爽たる事は、斯芸中他に比を見ぬ位である。
 此段が今日此の如く流行するのは、全部団平の力量と見て差支へないと思ふ。故に之を演奏する太夫にも、真正なる力量を要するのである。夫に可笑しきは、彦六座出の太夫でなければ、滅多に之を語らぬのである。夫はアレは団平の新作物で、浅薄な物であるとの意味が籠もつて居るやうに聞かれる。夫が言語道断である。仮りに一人の太夫を捕へて、之を修業させて見たらば直に分る。中ゝ急な事には成功は六ヶ敷のである。組太夫や大隅太夫も之を語つて、或る成功は仕たが、其団平作の音譜を案ずるに、中ゝ容易の事ではない、団平満身の力は、殆んど此一段に集中して居るやうに思はるゝ。現在語つて居る太夫は、皆夫が分つて居らぬやうに聴かるる。分つて居れば、アンナ事は語つて居られぬ筈である。骨組は綱太夫風に搦んで居るやうであるが、夫が中ゝ鰻谷計りでも行かず、阿漕計りでも行かず、其運び方が一種特別の芸力が漂うて居るので、決して不心得な芸人の手に及ぶ物でない。
 先づ枕のお紺の一人舞合がサア困難である。油屋と云ふ茶屋の気が漂うて、譜が付いて居て、其語る心持は、憂に沈んだお紺の一人舞台である。元来一人舞台を語る太夫は、芸の至つた太夫の力試しであつて、尼ケ崎の十次郎が本当に語れる物でない。『漸涙押拭ひ、母様にも祖母様にも』は只の力で云つて居られる物ではない。酒屋のお園の独り舞台は綱太夫物の中でも大難物である。鰻谷の八郎兵衛の独り言、此油屋の貢の独り言、皆心持が大事で、夫から「変り」と云ふ物が出来るのである。夫にお紺の独り舞合は「変り」無しで運ばねばならぬのである。
 『後にお紺のウッとりと』から『漸に顔を上げ』から、『恨涙にくれ居たり』までと云ふ物は、頭の上らぬ心持で音遣ひは、ある陽気な気分に触れて、心持は沈みに沈んだ陰気な運びを鍛練せねばならぬのである。夫から貢と云ふは祢宜であるが、少なくも万次郎の便りにして居る士気のある男で、一寸腹の立つ事が有つても、キャッ/\と猿のやうに怒つて計り居ては片付かぬのである。群がり来る怒気を押付けたり、又夫を押宥めたり、其腹加減が六ヶ敷のである。外の人形は、此処では貢を怒らせるやうに/\にと、工夫さへして腹合を拵へて置けば宜いのである。お紺は貢を見て、『ヲヽ誰れかと思へば貢さん』の一語は、大事の詞にて、お紺満身の情にて、此詞を飛付くやうに云つて、夫から万野や、他の者に気兼をし、気を取直して、『お客と杯するのは』云々と運ぶので、コンナ処は沢山あるのである。『又引返す』からが心持が出来ねば足取も語れぬのである。
 夫から喜助の意見の詞遣ひから、其「変り」の心持が出来ねば、忠実の心が現はれぬ。夫から十人斬る事になつては、「息」と「間」と「運び」が極つてから、「変り」方を語る修業鍛練が、出来ねば人間所ではない、大根一本も斬れぬ事になるのである。夫から元来『折紙の詮議』と云ふ問題も可笑しいが、夫は劇だから見遁すとしても、葵下阪と云ふ刀の名が可笑しいのである。此刀は元越前の国下阪住の康継と云ふ鍛治が、葵の紋章を刀の忠(なかご)に彫る事を、徳川家から許るされて、武蔵国江戸にも来て刀を打つ事になつて、御紋康継とも云ふのである。ただ葵下阪/\と計り云ふては、刀の銘にもならぬのであるから、何処ぞに此文字を書込まねばならぬのである。