此外題の書下しは、寛政六年寅の三月(大正十五年を距る百三十三年前)豊竹此母座に上場せしと聞く。作者は近松柳、近松松介ならんと思ふ。役場は調べても慥かな事は明(わか)らぬのである。話には、豊竹時太夫と聞くが是とても論拠がないのである。
明治二十五六年の頃か、大阪彦六座で、彼の茶びんの時太夫と綽名ありし太夫が、此役で出座した事がある。其時庵主端なくも聞いたが、格別面白くも思はなかつたが只だ『くもらぬ操、日本の賢女鑑と云つべし』と語つた時、満場其徹底した腹加減に感服したやうであつた。其後文楽座で先の津太夫が、此役を語つた事があつたが、其時庵主又行き合せて聞いたが、外の物は兎も角此段の品のよい事は絶品であつた。勿論節付けは東風になつて居るが、此段は品が第一の修業である。
先づ三重の『騒ぎ立』が、余程好き工合に三味線も、太夫も気を付けねば、此段の品の貫目が供はらぬ。夫から枕文句に気を付け、「ギン」の音の遣ひ方と、「足取」の運び方が中々六ケ敷のである。『咲花に』の「ギン」の音が能く据つて、『向ふ敵なし』と語つて、ウンと「間」があつて、「真ギン」で、『鎧草』と運び、『方八丁の大花壇』と語るのが、「間」が悪るいと、『方八丁』でなく『方三間』位の花壇になつて仕舞ふのである。総て斯芸は「間」が基であるから、「間合」をシツカリ極めて語るまで修業せねば、万事が駄目になるものである。『鎌倉方へ裏切の』と「三上」と伝ふて運び、『所存や』と云つて『深き』と「ギン」になつて、『奥御殿』と「色かゝりの中」となり、『忍び込んだる』と又「ギン」になつて、『造酒之守』と「コハリのユリ」になつて収まるのである。此等の注意が落付いて、据りが芸の上に付かねば、東物は駄目である。『絶入死骸じろりと見やり』と「色」に語つて、『奸佞邪智にて貪りし』と云ふのが津太夫の腹加減は持つて生れた品格にて、今日まで何とも云ひ得ぬ上出来で、今まで聞いた中で、此人が一番と思つて居るのである。夫から妻染の井、娘住の江の運びがあつて『ヤア聞たくもないよまい言』と「ヲシ」て、『伯……』と「クセ」があつて、『夷』と軽くなり、『叔斉饑えて益なし』と運び、『一旦鎌倉へ裏切の片岡』と「クセ」に語り、『だまりおろふと』云つて「間」があつて、『にべもなき』と「上」から下して「フシ」になる所もよかつた。夫から住の江の自害となつて、『恐ろしい石火矢を討手の役は何事ぞ』と語つた時は、満場覚へず感嘆の息を吐いたのであつた。夫から片岡の詞が総て工合宜敷くて、『坂本の城中に我と思はん者はなきや』等の息遣ひ、腹加減が、津太夫としては絶品であつた。夫から秀盛の詞として『ヤア/\春元暫し/\、坂本の軍師和田兵衛秀盛、宇治の方を是に守護せり』と音に掛つての詞は全部潰れて形なしで云へなかつたので、満場顔見合せて落胆したのであつた。其為めか『威儀を正して着座せり』のヲロシまで、総てスベリ加減であつた。夫から又春元の詞で盛り返して、工合よくなつた。併し秀盛の詞は一体に怖気が付いて居て悪るかつた。『底意を見抜く秀盛が、詞に片岡気もゆるみ』から、片岡の腹組みと息遣ひは余程面白かつた。一体此長詞を斯くまで引しまつてコナシた津太夫の力量は、他の企て及ばぬ所と思はれた。『麗はしき御尊顔を拝し』などの時は、津太夫も見物も、皆目に露を宿して居つた。
何でも此時の三味線は,松葉屋広助であつたかと思ふが『殺すまい物エ……エマ情ない』「テン」と「カワツタ」時の好サと云つたら、満場唸り声が涌いた位であつた。『一生殿御の肌知らず』から『伏転べば』の「クリ上」になつた時は、一人残らずの拍手であつた。夫から槙の戸の「詞ノリ」に「カワツタ」手ギワと云つたら妙であつた。『イヽエイナア現在連添ふ私さへ』の「カワリ」もよかつたが、『口説立つれば造酒の守』の「スリ込」になつて、『ヲヽ娘出かした』の詞の息遣ひは、全く老功と思はれた。茲は昔から多く間違易き「手」がある。夫は『親の不忠を諌めんと』は「シヤン」と弾いて、『異国本朝に』と切つて、『例めしなき』と「本表具」に語るのが悪るいとの事。此は「ハリ切」に弾かせて「表具カゝリ」に『異国本朝に例しなアーーアキ』と語り、『孝行者手柄者』と「色」に語つて、是で「シヤン」と「本表具」にして、『親子は一世ヱーー、ノオヲ、別れとやアーーアーーら』と語る物と聞いて居る。尚ほ念の為めに大掾に聞いて見たら、夫はトンとお説の通りと思つて居りますと答へたのである。夫から『唱ふる六字は鯨(とき)の波(こゑ)』の段切に至るまで、永年津太夫の芸を聞いて居たが、此程結構な物を聞いた事がない。全く老功の力と思はれた。