(六十七)蝶花形名歌の島台 八ツ目切 小阪部兵部館の段

 此外題は,寛政五年丑の七月(大正十五年を距る百三十四年前)作者は若竹笛躬、中村漁眼が、彼の柴田勝家が辞世に『夏の夜のゆめ路儚なき後の名を雲井にあげよ山時鳥』とありしを、本として作した物で、役場は豊竹麓太夫と聞く。
 此作は至極窮した筋ではあるが、節付けが真東風になつて居て、手順がスラ/\と出来て居るから、世に廃たらず流行するのである。余程手垂れの人の付けた音譜と見ゆる。大抵コンナ物は臭い甘つたるい手で練上げてあるが、此丈けは夫がソーならぬのである。全く「受け」の間に力があるからである。故に総ての「受け」を弾丈けの力量に備への付いた、修業をした人でなければ、中々弾けぬのである。元より小阪部音近は、長曽我部元親の事であるが、夫にしても孫と/\に斬合はさせる趣向などは、只だ珍を競ふ丈けで、物に成つてをらぬ作である。夫れと同じく、由良之助生立の段の如きは、咽吐すべき物である。又宗貞が妻真弓に渡した扇面の詩を、父音近が誦むのに、昔より『秋来月を見て帰思多し、自から籠を開いて白鴎を放つ』と大きな声をして太夫が語るが、是丈けは全国中改めて貰はねば、馬鹿々敷くて聞いて居られぬのである。元来此詩は支那の陶淵明が、故郷を思ふの情を、他の人が作つた詩で、題は、和孫明府懐旧山、唐の雍陶の作としてある。
 詩は、五柳先生本山に在り、偶然客と為つて人間に落つ、秋来月を見て帰思多し,自から起つて籠を開いて白[間+鳥]を放つ。
山、間、[間+鳥]の三字が韵字で、詩を作るには是非置かねばならぬ字である、夫は十五刪の韵と云つて其韵の中にある字を撰んで作らねば、詩にはならぬのである。夫を終ひの一句に限つて、起と云ふ字を抜いて七字を六字となし、十五刪の韵でもない、十一尤の韵の中の鴎の字を持つて来て、韵字として居るなど言語道断である。況んや鴎の字は、かもめと云ふ水鳥の事である。白いかもめを籠に入れて居るなどは咄しにならぬのである。[間+鳥]の字は新字典にも、かのこどり、白雉子、形は山鶏に似て、距嘴共に丹く、尾の長き鳥である、又白[間+鳥]とも云ふ、白雉子であると書いてある故に白[間+鳥]とは白雉子の事であるから、此丈けは此を語る人が、全国中改めなければならぬ義務があると思ふのである。
 総て此処を語る太夫は、東風の真掟を修業すると同時に、腹から徹底的に「ギン」の音を修業せねばならぬのである。『秋は殊更』から「ギン」の上品な音が、満場に漂はねばモウ物に成つて居らぬのである。又姉妹の詞争ひが下品な喧嘩になつてはならぬ。又『帯際取つて引戻す』の辺からも「チ、チ、チ、ツン/\」の如き、「チリガン、/\、/\、/\」の手の如き、姉妹とも重き裳の衣物を着て居るから「マクレ」て早く成つてはイカヌ。足取も「間」に気を付けねば、先の方は弾かれぬやう語らぬれやうになる。又此段の貫目を語る事の一例を挙ぐれば、昔から『無礼の拶拶仕るな』「ツン」『身も礼服に改めん』と語る一言が何とも云ひ得られぬ貫目がなくてはならぬ。夫が物に成兼ねるので、此段の品位が建て直らぬのであると聞いて居る。
 庵主は三代目越路太夫が文字太夫から越路太夫に、名前換をした時が長局、次が堀川、其の次が慥か此蝶八であつたと思つて居る。其時前の枕が少し浮いて「足取」が持て居なかつたから永年の贔屓太夫だからハラ/\思つて、是では奥まで甘く語れるか知らぬと、尠くなからず心配をして居たが、此『身も礼服に改ためん』との一語になつて、本当に徹底的に貫目が付いたからハアー此の太夫は屹度立派な太夫になるナアと安堵をした。又其の時の吉弥(後に吉兵衛)の弾いたのは、勝手は悪るかつたが、総て上出来で「受」が皆活きて居た。殊に『無礼の挨拶仕るな』「ツン」の如き、今尚ほ耳に残つて居る。同じ人の今の吉兵衛に今一度アンナ「ツン」が弾けるかドウだかと云ふ程良かつたのである。総て此段はソンナ事が、大天狗の所として味はねば取所も聞所もないのである。夫は特別な此段丈けの修業が根本になるのである。夫さへ分れば段切まで独りで語れて行くのである。総て文章の意味に対する「受け」と云ふ物は、実に一段を死活せしむる大問題であるが、今の数多き三味線弾や太夫連も、ソンナ風の芸を聞かせて貰いたい物である。