(六十六)碁太平記白石噺 七ツ目切 新吉原揚屋の段

 此外題は、天明五巳の年の頃、月日は判らぬが(大正十五年を距る凡百四十二年前)江戸の結城座に上演した筈である。作者は紀上太郎と云つて、何でも今の三井家の祖先に当る人が、頗る風流な人で、常に多くの芸人を呼集めて浄瑠璃の創作に、浮身を瘻して居たとの事であるから其人らしいのである。糸桜本町育の如き、志賀の敵討の如きも、皆此三井旦那の匿名紀上太郎の作らしいのである。
 丁度其頃江戸に下つて居た竹本紋太夫に、五ツ目と此七ツ目を、節付けさせたとの事である。故に此揚屋の段の役場は紋太夫と思はねばならぬのである。此紋太夫と云ふ人は、三代目で前名倉太夫と云つたそうで、本名此村屋治兵衛と云つては、上方でも江戸でも、評判の名人で、斯道の物識と云はれた人の由である。元来此紋太夫と云ふ名の初代は、二代目義太夫、即ち播磨掾の門弟であつて、薄雪の清水の段や、橋供養の二の切や、二ツ蝶々の米屋の段等を語り、終には竹本上総掾と任官して、布引の二段目切三人上戸(*義賢館)の場を語り、講座にて芸往生をしたと云ふ名高い人との事である。二代目は当時名人輩出の折柄とて、二段目の切までは、役が付かなかつたらしいが、物識としては、中々名高い人であつたとの事。夫から三代目紋太夫は此倉太夫であつて、余り二人とも芸が豪らかつた為め、其以後此名跡を継ぐ者がなかつたとの事である。此人の風を、故摂津大掾が咄しをして居た事があつた。
「私はマダ物の解らぬ時に、三代目吉兵衛さんから、紋さんの咄しを聞きました事が厶りました、初代政はんの風を呑み込んで、情語りの風を開いた人は、此人じやと云うて居られました。又後年に至り、団平さんは、紋さんの風は総ての芸が抜ける程呑込むと云ふのが本であるから、人情が自在に語られるのである、と云うて居られました。成程揚屋の段も、私は度々役は付きますがしのぶの詞など、十分に鍛練して呑込まぬ事には、アノ詞を云つても情が浮く事にはなりませぬ。又宗六の詞でも鍛練に/\をして、総てを呑込まねば、此役の腹が浮いて来ませぬ」
と云つて居た。庵主の聞く所によれば、此宗六は、千葉三郎兵衛とかを当込んで作者が書いたのであるから、其心で詞を考へねばならぬと。元来修業も鍛練も、此詞が大事の眼目である。曾て三代目越路太夫が.庵主に咄しをして居た。
「私は師匠が急に病気になられまして、白石の揚屋の代り役を致した事が厶ります、三味線が松葉屋(豊沢広助)さんで厶りました。何様直ぐに飛んで出て語りましたから、演了てから、松葉屋の師匠が風呂に這入つて居られましたから、其所へ行きまして、板張りに手を付いて、師匠の病気が如何かと思ひますから、明日からドウかお稽古を願たう厶りますと云ひますと、松葉屋さんが何をへ、と云はれますから、ヘイ「白石」をと申ますと、松葉屋さんが、顔を手拭で摺つて居られましたが、一寸止めて、考へて居られましたが、軈て私の顔を振り向いて、アヽ、マア、イヽ、今日位の所で、ドウにでも遣つとき…………、稽古したかて…………味好(あんぜう)ふ遣らりやへん………お前等では一生遣られぬかも知りやアヘん、と云ふて稽古をして呉れやはりまへんので、心の中で甚だ残念に思ひまして、其儘に語つては仕舞ひましたが、程経まして、二見の師匠の機嫌のよい時、松葉屋はんの云やはつた事を咄しをしましたら、師匠が、アヽ、アノ気むづかしい人じやさかい、そない云ふたのじや、其松葉屋に云はれた事を、マア悲しむ事を後にして、よく思案をせぬ事には、芸の事は解らぬぞへ、元々斯の道で七ッ目と云ふ物は、其位の芸にならねば、口で教へたからて解らやへん、講釈の七ッ目、加賀見山の七ッ目、忠臣蔵の七ッ目、皆自分の力で思案せねば、解らぬ物である。聞いた位、教はつた位では解らぬ物と思ひなはれ。と云はれて、ビツクリ致しました。其後私が或るお茶屋で、素人さんに此揚屋を稽古して居ましたら、奥に大隅さんが来て居られまして、後で挨拶に参りましたら、大隅さんが小声で、貴田はん、揚屋のお稽古の仕方が遣(**違)ふぜ、アレでは情は丸で語れて居らぬ、私は新町(*清水町)の師匠に『ヲヽ姉さアで厶るかいノウ』と云ふ所を、コレ大隅、お前は遠国から、年の行かぬ田舎娘が江戸へ来て、散々恐い思ひをして、気も魂いもワナ/\して居る所に、図らず実の姉と解つた時、嬉しいか悲しいか、其娘心が解つて語つて居るのか、『ヲヽ姉さアで厶るかいのウ』何と云ふ情けない詞遣ひじや、私は、そんなお前が了簡なら、稽古にでも、お前の語るのを聞くのはいやじや。と云はれた時は、ゴツンと[鼠+晏]鼠(もぐらもち)が石に当つたやうに、今日まで思案斗りして、揚屋はヨウ語る気にならぬのじや、此七ツ目は総て思案をして/\仕抜いて、第一に腹が合点して、サラ/\するまでにならぬ事には、情が浮いて来ぬと思ふ。と云はれました、私は大隅さんとは芸の風も元から遣(*違)ひますので、云やはる事を余り気にも止めずに居ましたが、此時斗りは又揚屋でビックリ致しました」
と云うて居た。斯る組立で出来て居る物らしいから、本当に七ツ目を修業するなら、先づ其腹構ヘが肝要であると思ふのである。
 始めの弾出しが、日本無双の面白き心持で弾く撥捌きで、「ツン/\/\ツン」と「ノリ」て弾く、『入相の』とフリ切る力が六ケ敷加減物で、入相でも陰気にならぬやうに、「シアン」『鐘さへ早く』と出来る丈け陽気な入相に語る事。夫から『暮れ果てゝ』が何時も「一」の音に落る、夫がイカヌそうである、「ニジツタ、ギン」に落ちるとの事。『廓の』と云ふ「ウクオクリ」も「中ギン」の心であるとの事。『万灯会』で始めて「一」に据るのであるそうな。『歌舞の菩薩』は時代に語るとの事。『わけて全盛』から世話になるそうじや。『客噂』は『キヤクーーウウ』と云つて「ウワサ」を別に云はねば『キヤクーーワサ』になるとの事。信夫の詞もよく気を付けて『ヲヤ/\/\、ヲンジロサアタチ、人が』と云ふ『ヒと』は、『フと』と云ふ積りて、『ネソベツテ居る』と云ふ中に『ネソベツテール』と云ふ積りで、『キトウラヘ』と云ふ中に『キトウレヘ』と云ふ積りで、『ニカイ』を『ニケーー』と云ふ積りで、『ブチアゲテ』を『ブツチヤゲテ』と「ノン」で「ツメテ」云ふ積りで、『コリヤマア、ナンタル』を『アン』と云ふ積りで、『ドコモカモヒカリ』を『フカリ』と云ふ積りで、『クシサア』を『クツサア』と「ツメ」る積りで、『ヒツカカツテ』を『フツカカツテ』と云ふ積りで、『ヲヽ、ヤサーーシナ』と『サ』を引く事、『メコワラジ』を『ワラズ』と云ふ積りで、『タズネテ』を『タンネテ』と云ふ積りで、『ヲラダケ、ヒトリ』を『ウラダケ、フトリ』と云ふ積りでとの事。マダ書けば沢山あるが、此等は寛政六年頃の「奥州言葉の色草」と云ふ本によつて、調べ上げたとの事である。
 夫から奥になつて、『その五月雨の暗き夜に』と云ふ文句が大性根の処にて、此音が煮へ込むやうに据らねば、奥にならぬとの事。「ツン」と聞いて直ぐに『敵を討つたる』と云つたら、宗六にならぬとの事。「息」があつて、眼色をかへて云ふとの事。夫から『舞うて飲むやら唱ふやら』の「カワリ」は芸の気で腹から「カワル」事。『意見上手の親方が』と云つたら「こもる」と「間」で云つて、「ウレイ」で『ナアサアケーーニイ』と「ヘタツ」て情を持つて『宮ヤーア城野が』とやさしく『妹を』「チンテン」『部屋に、奥座敷イーーイ』と切るのであるとの事である。