(六十五) 伽羅先代萩(からせんだいはぎ(*めいぼくせんだいはぎ)) 六ツ目切 政岡忠義の段

 此段は、天明五年巳の八月(大正十五年を距る百四十二年前)江戸結城座に上場し、役場は三代目若太夫、即ち幾竹屋庄蔵と云へる人が、好評を得たる段であるとの事。作者は松貫四、高橋武兵衛、吉田角丸等が作した物で、全体は劇として上作の部に数へられると云ふ評判である。
 此段は矢張東風に手が付いて居る。庵主は故後藤象次郎伯の高輪邸にて、大隅太夫が語り、鶴沢寛三郎が弾いたのを、始めて聞いたのである。元来がアノ大隅の声柄で、此子役沢山で高き音遣ひのある物を語るのが無理であると、聞手の人々、即ち五代目菊五郎や、富貴楼のお倉や、庵主杯は伯がコンナ物を語らせるのは、注文が悪いと、ザワザワ云つて居たが、大隅は平気で裏店の子供の喧嘩か、ムク犬が二疋で噬み合ふやうな、小役を語つて、丸で鶴喜代と千松は、乞食の子のやうな品合であつたので、聞手も大分迷惑のやうであつたが、『お末が業を信楽や』と飯焚の処となつて来たら、其音遣ひと、情合のカラミの面白くなつて来た事と云つたら、 一同水を打つたやうになつて来て、雀の歌の辺になつた時は、声が良いやら悪いやらも分らず、満場情合で引付けられて、政岡の泣笑ひとなつたら、一人も泣かぬ者はない事になつて来た。
夫から栄御前の出に成つて来たら、息と運びが切り放れて良いので、飽迄筋を知つて居る人々でありながら、此先き何となるであらうかと、目を見張つて心配するやうに成つて来た。夫は何でコウ成つて来たかと云へば、『梶原様の奥方御入なりーー』と云つた後で、大隅が何とも云ひ得られぬ息合で、『コレ千松、常々母が云ひし事、必ず/\忘れまいぞヤ…サ早ふ、/\と追遣つて』との云ひ方が、何とも云ヘぬ情合が籠つて、此一言が、親子一生の訣別ともなり、又万一の場合死ねよとの大覚悟を千松に云ひ渡した事ともなり、又自分も、此栄御前の入来は並大抵の事では収まりは付かぬ、此処が五十四郡の興廃存亡を分つ時である、との大覚悟を付けた時の一言である事にもなる、と云ふ深い/\情合を罩て千松に云ひ聞かせた一刹那である。夫程の情が、『コレ千松、常々母が云ひし事、必ず/\忘れまいぞや…サ早ふ、/\』の一句に漂ひ罩る。夫には前からの仕込もあつて、無心の聞人に夫がハツキリと明白に此丈け分つたので、栄御前が出て来てから、一同心配が始まつたのである。庵主は素より三味線を弾いて居る鶴沢寛三郎でも、一同の人々でも、コンナ先代萩の御殿を聞いた事がない。此段に感服するには、外に名人も沢山あらうが、『必ず/\忘れまいぞや』の一言にて、此処に至るまでの修業をせねばならぬとなつたら、誰れも先代の御殿を稽古する人はあるまいと思ふ。夫から大隅が語る政岡のクドキ、『誠に国の礎ぞや』以下は、丸で咄しのやうで、何時も人々の面白がる処は全部ないので、只々顔も上げ得ず泣く計りであつた。大隅が語つて仕舞ふまで、脇息に凭つて、息を詰めて聞いて居た後藤伯は、ヤツト、
「御苦労であつた」
と挨拶をせられて、漸く一同を顧みて、
「ドウジヤ判つたか、此を聞くと、五人も十人も顔を塗つて、騒ぎ廻る芝居は馬鹿な物じやネー」
と云はれた。此時まで五代目菊五郎は、永く沈黙して聞いて居たが、ヤツト頭を上げて、庵主に向つて、
「旦那、此大隅さんの息込みで、政岡を仕ましたら、素顔で袴を着けてしても、屹度見物は泣き升ぜ、併し今の役者には此丈けの芸人は居りませぬ、若し居ても、アノ息込で広い舞台を懐に入れて出ましたら、役者なら長生が出来ませぬ、キツト早死して仕舞ひ升」
と云つた。庵主は又此菊五郎の咄しに一入感服した。芸人の見所には責任がある。唯では決して聞いては居らぬ事が判つた。
 斯様な訳にて芸と云ふ物は、天然の声などの問題ではなく、修業と、心掛けと、腹構へ計りである事がハツキリと判るのである。夫から此大隅の御殿に、頭を刺戟せられて、此を無上の御殿として仕舞つたのであるから、其後ドレを聞いても徹底がなく、皆全部雀が小歌を謡つて居るやうな気がして来たのである。故に此御殿の段を聞くのには、中々聞方に庵主等も困難したのである。夫から有名な彼の摂津大掾の御殿を聞いたのは、其数年の後であつた。突然又高輪の後藤伯邸から呼びに来たから往て見たら、摂津大掾(其時の越路太夫)の御殿が始まるとの事で、庵主は不思議な事じやと思つて居たら、軈て御殿が始まつた。庵主は之を聞いて、斯く感じた。丸で大隅の御殿と品物が違ふ。其語り方も節も音遣ひも、両人全く同様ではあるが、大掾の始めよりの努力は、大隅と丸違ひである。夫は品格である。大掾の御殿で始めて、五十四郡の国主の江戸屋敷は斯くも有らうかと思つた。其品位の中に、色々の事件と情合が満たされて居たのである。始め大掾が語り出す時はアーア好い声である、名音であるナアーと思つたが、後には声が好いやら悪いやら、又夫も判らぬ事になつて仕舞つた。只だサラ/\と語つて、其泣方なども大隅のやうに穢なくなかつた、夫が又一層深酷味を加へたやうであつた。要約して之を批評すれば、大隅の御殿は只の普通の家庭の中の事件であつて、大掾の方は本当の仙台の御殿であつたと云ひ得るのである。後藤伯も後で斯ふ云はれた。
「杉山君、矢張り師匠は師匠丈違ふネー、大隅の方は騒々しかつたネー、此方は塵も動かぬ程静かな御殿の中の劇であつたネー、只だ三味線がジヤガ/\云つて何だか邪魔になつたネー」
と頻りに吉兵衛の三味線を排斥せられたが、庵主は吉兵衛贔屓であるから黙しては居たが、吉兵衛は良き音を乱用して、情と「間」と「ノリ」を弾かぬから、斯く云はれるのである。後藤伯も矢張り大分の聞人であると思つた。其後大隅に逢つて此咄しを仕たら、彼曰く、
「二見の師匠も私も、清水町(団平)でウンと遣られた仲間で厶り升さかい、云ふ事には違ひはオマヘンと思ひ升が、アノ方のは品物に襤褸がオマヘン、値打相場が違ひ升、アノ方はアレで仰山お金を儲けハリました、私はマダ一文もアレで金を儲けませぬ、夫丈け違ひ升」
と云つた。其後後藤伯は大掾に十種香を語らせ、大隅に又十種香を注文したら、大隅は断はりを云つて、志渡寺か、狭間合戦の官兵衛砦かをと頼んだので、大隅は夫を語る事になつて居たが、後藤伯の事故の為めに中止になつたのである。
 扨先代の御殿と云ふ物は、大略コンナ物であるから、之を語るには節付け以外に、沢山の注意と心掛けが入るのである。先づ枕の『跡見送りて政岡が』と語り出すにも、大掾が後年聾になつてからは、只だサラ/\と云つて居たが、若い間は『アー……ト「ツン」見送リーーて』と音で語つて居た。即ち長局の出と同じ事であつた。夫は志渡寺の『跡見送りて菅の谷が』と同じ事である。此を住太夫節と云ふとの事である。夫から『誰に問ふべきやもなく』此を皆「スヘテ」と思つて語つて居るやうであるが、此は「フシハル(*ハルフシ)」であるとの事。此幾竹屋庄蔵と云ふ人は「ハルフシ」の名人で、七通にも語り分たとの事である。其「フシハル(*ハルフシ)、力ヽり」を音を遣つて語つたと云ふまでゞある。其証拠は只の「フシハル(*ハルフシ)」で語つて見ると、却て都合が好い位である。夫から『モウ何云ふても大事ないかや』と、鶴喜代君が云つた後『ハイ』と云つた後……』と息があつて、『外に……誰も居りませず』と云ふ、此加減が全段を通じて皆此詞遣ひが六ケ敷心持である。総て節や、足取や、音遣ひは、師匠に習へば判る。『ドリヤ「トン」拵ふとかい立つて』から此心持である。総て茶の湯の道具で間に合せに御飯を焚くのである、皆其積りで節付けが出来て居るから考へねばならぬ。「チン」『取り出す』と云ふ「ギン」の「ウクオクリ」が満足に語れる人が少ない、夫から飯焚になつて『イツ水。さしを』と水さしが成丈け切れぬやうに語る事、夫は炊ぎ桶も同じ事で、『かし。ぎ。桶』とニツも三ツも切れたがる、夫がいかぬ、成丈音で持つ事。以下此に同じである。夫から皆『力なく/\』と云つて仕舞ふが、アレは『チカラ、ナ、ク、ナーーク』と泣いて「ヒロウ」こと。夫から又『梶原様の奥方御入』から、 ハツト気を変へて語る事。夫から八汐が千松に突込んでから『此でも……カアー』とヱグツたら、千松が『ア……』と泣き、又『此でも……カアー』とヱグツタラ又『ア……』と泣く、又『コヽヽヽコ、此でもカアーと、なぶり殺しに千松が苦しむ声の』と語るべきだと、三楽と云ふ人が『古咄集』に書残して居る。夫から『トハ云ふ物の可愛やなア』からは、口説であるから、成丈け口説に語つて、謳はぬやうに心掛ける事。先づ大略コンナ注意が此段に必要である。