(六十四) 加賀見山旧錦絵 七ッ目切 長局の段

 此外題は、天明二年寅の正月(大正十五年を距る百四十五年前)江戸新太夫座に上場し。作者は容揚黛と聞く。役場は住太夫とのことである。
 豫ても云ふ通り、此義太夫節にて七ツ目と云ふのは、筆にも口にも尽し難い、六ケ敷所のある物としてある。忠臣講釈七ッ目、鐘太夫場。白石噺の七ツ目、紋太夫場。忠臣蔵の茶屋場、筑前掾、政太夫場の如き、皆其芸力ある位地にならねば、語られぬ事にしてある。殊に此加賀七は、住太夫が一代の当り芸で、後世芸人の研鑽は、水火を熱するに至つたのである。彼二代目越路太夫の、名前替の出世芸も此段であり、三代目越路太夫の名前替も、此段であつたとの事。殊に大隅大夫が団平の稽古で、此段に苦労した事は、今更筆紙の能く尽す所ではない。
『アート「ツン」見送りーイテ、フスーマノカゲ』此文章を云つて仕舞つて、夫が曲節になる。即ち是が住太夫節と云ふとの事。即ち江戸浄瑠璃の先代萩御段の切の『アート「ツン」見送りーイテ、政岡カァーーアガ』即ち住大夫節で、三代目若太夫、即ち幾竹屋庄蔵と云ふ人が語つたとの事である。又住太夫の役場で、江戸浄瑠璃の志渡寺の段でも「アーァト「ツン」見送りー一イテ、菅アーノヤアが』夫を皆三味線弾と、下手太夫が、名々各々に後世勝手に替へて、弾いたり語つたりしたのじやと聞いたのである。四五年前も文楽で、或る太夫が、此段を語つて居る時、死んだ広助が、庵主の宿に来て、
「旦那はん、アンタ文楽には一寸とも来やはりませぬが、一ペン来て見なはれ、ヱロー面白ふござりますぜ、長局が聞物だす、『テも恐ろしいたくみ事』と云うてますぜ」
と云ふから、其気になつて聞きに行つたら、前年より総て背景が綺麗で、人形斗りがホタヘて、舞台がガサ/\して、久し振りで見たせいか、何所にも力の入らぬ心地がした。夫から長局の語る太夫が出たら、総て活動写真の弁土程も力が入らぬ。成程『テも恐ろしいたくみ事』と、只だ云つて居た。広助は庵主の側らにあつて、目に涙を浮べて、
「新町(*清水町)の師匠が、大隅さんを稽古して居やはるのを、毎日聞いて居ましたが、大隅さんが『テも恐ろしいたくみ事』と幾度云やはつても、何を云うてるのじや、と云つて、中々通しやはりませぬ、私は大隅さんが可愛想になりましてナア」
とガヤ/\/\と云つたので、隣桟敷の見物から咎められて、広助は腹を立てゝ帰つて仕舞つた。庵主は彼に誘ひ出されて、置いてキ放を喰はされて、其活弁よりも悪るい、長局を、トウ/\仕舞ひまで聞かされた事がある。物価は騰貴し、義太夫節は下落して、住太夫節などは、其風の昔語りも出来ぬ事となつたのである。
『ヌウキイアヽシ………サアシイアヽシイ………トイキーイツーウキ…』是に云ひ知れぬ息があつて、『…テも恐ろしいたくみ事』となればこそ、修業の問題にも成るのである。夫が甘く行くか、不味く行くかは、其人の器用不器用であるが、修業に因つて其心持が浮き出るのである。夫で此お初の詞遣ひが、心持から出て来る故、一大事の悪事を聞いた独り言になつて来るのである。夫に活弁太夫は、今一人外に咄し相手が居つて、咄しをして居るやうに聞ヘるのである。夫で広助が憤るのである。夫が分らねば、七ツ目は語られぬと断言出来るのである。
 夫から尾上の廊下下りは、全く気をかへて、品よく語る。夫を見たお初は、素々岩藤の悪事を立聞して居るから、下女詞の切々に、主人尾上の顔を見詰めるやうな息遣ひが、此段の型と聞いて居る。又尾上の詞遣ひは顔を人に見られぬやうに/\とするやうな心持で語るとの事である。又書置を書く間は、決して泣いてはイカヌ、只だ残念々々と云ふ息と、泣く息とが間違はぬやうに語るとの事。お初が『家国を失ひ』から『御家中散り/\』の辺から『たつた一人の不了間で千万人の身にかゝる』と云ふ辺りは、サムライ詞の気で語るとの事。又尾上の上品も、お初が出て行つて、ガラリと変り、此迄町人の娘々と云はれて居たのが、是で顕はれて、『身も浮く斗り』から『此中のお文にも』以下総て町人の娘になるとの事。又『アヽ我ながら未練なり』から、元の尾上になるとの事。お初の駆け込みは、総て太夫も三味線弾も、マクレル事に極つて居る。夫は屹度人間の足取の間でなければ芸が大きくならぬ。大きくならねば、見物が引付けられぬ。昔日の古靱太夫は、自分の両の手で膝を叩いて間を拵へて駆け込みを語つた事もあると聞いて居る。此所のお初も滅多に泣いてはイカヌ、『すきを見合せ岩藤を』、『御恩を送り申さんと』の辺は皆チャンと武士詞になるとの事『夜も早や』から落付いて最も大きく運んで、総て世間を憚かる心持で、夫が大きく聞ゆるやうにと云ふ加減が、中々注意を要するとの事である。