(六十三) 伊賀越道中双六 八ツ目切 岡崎雪降の段

 此段は、天明三年卯の四月(大正十五年を距る百四十四年前)竹本座にて上場し、作者は近松半二、近松加作である。役場は竹本住太夫であると思ふ。伊賀越中の八ヶ間敷物である。
 此住吉屋文蔵(国根住太夫)と云ふ人が、一生の中には江戸へ来て、志渡寺も語つた、長局も語つた。又竹本座にては、島太夫の語つた二十四孝の三段目も語つて、評判嘖々たる物であつたが、此竹本座には、岡崎の段程ズバ抜けて豪かつた物は有まいとの事である。大隅太夫も芝居で四度斗り語り。組太夫のも一度は聞いたが、其外に、故綾瀬太夫が抜ける程稽古をして、東京で語つて居る時も、庵主は誠に贅沢な稽古をした物じやと、感心して聞いて居たが、其時の絃は多く豊吉や、団八が弾いて居た。二人とも天稟の芸の良い人ではあつたが、一方太夫の方は、何様芸が極つている。一方絃の方は、芸は良くても極つて居らぬから、紙六七枚語る中には、詰まり引摺らるゝ訳になつて居た。其後に大隅太夫が語るのを聞いた。是も良くアレ丈け芸の極りが付いた物であると思つて聞いて居た。近来又三代目越路太夫が語つたのも、又度々聞いたが、前の三者は岡崎の稽古から、太夫が生れ出て居るから、其芸が畏ろしかつたが、越路太夫の方は、越路太夫の芸力から、岡崎が生れ出て居るから、良くは語つて居たが、稽古が手薄いから、畏ろしくはなかつた。先代越路太夫も六十歳から本当に凝つたから此三代目も是から此岡崎を凝るか凝らぬかゞ、一つの問題である。斯様に歴代の芸人が、丹精を凝らす品物故、生半可な天狗様の、歯の立つ物ではないのである。
○『既に其夜も、しん/\と』、此『しん/\』と言つて仕舞つて、音の遣へる人が滅多にない。
○『遠山寺に告渡る』、是までの腹と音遣ひで、八ッ目の位がチャンと定まつて、聴衆が耳を澄ますやうにならねば、此段は成功六ヶ敷のである。
○夫から『早九ッのかねてより』からの「乗変り」が其位にならねば出来ぬ。
○捕手の間の「ノリ」止まりと「足」の伸縮は、天下大隅太夫の右に出る者はあるまいと思ふ。
○幸兵衛の息込み。捕手の小頭と応対の詞と政右衛門と応対の詞との「変り」は中々六ヶ敷い。
○世に師弟の情を語るに是程六ヶ敷い段は有まいと思ふ。
又大隅が、
○幸兵衛が出て往つた後で、婆さんが『戻らしやるまで寝られもすまい』の独り言の六ヶ敷さと云ふたら、私は一生に一度も其心持ちに語れませなんだ、と云つて居た。
○又お谷の出の「ウキタヽキ」の節と足取を、或る大家の太夫が、憂と泣との腹を持つて語つて居るのを聞いて、満場の見物が感心して居たが、是は岡崎を語る事を知らぬ太夫である。此所は寒いと云ふ心持と、静かと云ふ心持と二つに腹を〆めて、八九月の大暑の時に語つても、満場が冬の寒夜に居る如き心地になるやうに語らねばならぬ。憂を持のは、ナヲス処からである。岡崎の宿より先きに日が暮れて、此所が峠であることは、昔からの極まりである。
○大隅太夫は火の番が、『つぶやき帰る』と云ふ音遣ひで、毎日ワーッと聴衆に感嘆させて居つた事を忘れぬのである。
○夫から『癪と寒気にとぢられて』と云ふ処は、毎日大隅太夫と云ふ人間は居らぬやうで、浄瑠璃斗りが満場に漂ふやうになつて居た。
○夫から幸兵衛が帰つて、門口で政右衛門との応対の処が、此段の打止めに六ヶ敷処である。
幸兵衛が家に這入つてからは、普通の義太夫節になるので、気を付けて語りさへすれば好いのである。夫を此辺から一層モタレ込んで語る太夫があつたが、夫は沙汰の限りである。
 最後に肝要な事を一つ云つて置く。多くの太夫が此国根風、即ち初代住太夫風と云ふ物を知らずに、住太夫風は豪らい/\と天狗を云つて居る丈けで、其風を知らぬから、芸が総て油売に成つてタラ/\と長く斗りなつて仕舞ふのである。庵主は之を摂津大掾と大隅太夫との両人より同じ様に聞いた。曰く、
「国根風と云ふ物は、安永の中頃より一般の芸風が違つたと云はるゝのは、此人の仮名詰、間詰の名人であつたからの事である。総て太夫が此風を忘れたならば、何物も語れませぬ。夫が古浄瑠璃の回復である。即ち仮名詰めとは絃を捨てゝ云つて仕舞う事である。夫が力なければ出来ぬ事である。『アート、見送りて襖の蔭』『硯の海のそこはかと』『既に其夜もしん/\と』『雨に連れ風に連れ』『師匠の頼に』『アート、見送りて菅の谷が』又「カヽリ」でも『トヾカイデーーヱヱ何とせふ』と云ふが如く、サラ/\と云つて仕舞う事である。此風は決して忘れてはなりませぬ」
との教訓であつた。先づ此段に就いては大概コンナ物である。