(六十二) 伊賀越道中双六 (*六ツ目切)沼津里の段

 此段は、近松半二、近松加作の作であると聞く。初演は天明三年卯の四月二十七日(大正十五年を距る百四十四年前)竹本座にて上場せしものと思ふが確実な証拠は分らぬのである。中興の名人竹本染太夫の役場であるが、前の小揚げと云ふ処は、男徳斎、即ち咲太夫が語つたのであるが、此人は名人である上に、チャリに堪能な人であるから、語り方が、全く奥と違ふのである。元来が風格の違ふ人であるから、「間」と「足取」の捌きが、小気味の好い程、極りが立派でなければならぬ。
 十年斗り前に、大隅太夫が文楽で初役の時、此事を調べて中々研究して勉強して居たが、初日五日目に庵主が聴いた時は、マダ腹捌きが付いて居なかつた故、奥との照り合が面白くなかつた。十三日目に又聴いた時は、ビックリする程キハ立つて面白かつた。一寸アノ位の沼津は聴く事が出来ないと思つたのである。是は故津太夫が大方受持つて、幾度も語つて評判を得て居たが、只遺憾な事には、前も奥もノベツであつた。流石大隅太夫の語り方は、前と奥とは腹捌きがアッと云ふ程違ふて立派であつた。故摂津大掾も初役で語つたが、此時は庵主を相手に、大掾が自分の研究旁、去る明治庚戊の年の春より、教へ試みた色取りで語つたのである。
 一例を挙れば、大掾は『ドウジャ爺父殿、痛みは癒らふがの』と云ふに『ハイ、ア、ホンニ痛みはトーント直りました』と云ふやうな息合に、三昼夜に数百度も云つて見たとの事である。アノ老功と、アノ力と、アノ年齢で、アノ勉強は、頭の中で咲太夫を描き、其芸風を辿る所の研究は、只だ仙化せん斗りである。大隅太夫も同じ此場で『孝行な娘が花手向、花の立方ハイ、御覧じやつて下さりませへ…………』の一語を、平作が涙一杯の声で笑はねばならぬので、夜通し遣つて居たら、トウ/\夜明前には自分が泣出したと云つて居た。殊に此段は、先師春太夫の語るのを抜ける程聴いて、何でも覚へて置かねばならぬと思ひ、其本を南区の写本師に頼んで書いて貰つたら、一枚文久銭四文であるから、一冊三十銭余であつた。内金十五銭を渡して後、長き年月後金が渡せぬのでトウ/\其家の前が通れぬ事になつた。或る時座摩の社内にて、其写本師にバッタリ行会つたからピョコ/\頭を下げて詫言を云ふと、其写本師が、
「春子はん、ソンナ心配には及びません、御前の勉強は尋常でないから、屹度エライ太夫さんに成んなはるに違ひないから、御前さんがエロウなんなはつたら、其時御呉れやす、夫まで貸ときまサ」
と云はれた事を、其後スッカリ忘れて仕舞つて、今度此役を語る事になつて思ひ出したから、段々其写本師の事を尋ねたら、モウ疾うに死んで、其息子が天王寺町で張物屋をして居るとの事じやから、朝早くに行き、菓子折を持つて、其家を尋ねて、金五十銭を包み、
「今度アンタのお父さんの書いて呉りやはつた本で語り升さかい、ドウしても之を取つて貰はねば語る訳に行きませぬ」
と云つたら、其息子夫婦が、涙を流して、
「親父の墓が直ソコでをますさかいに、一寸一緒に参つておくれやす」
と云はれて、大隅は大喜びで墓参りをして、好い気持になつた、其本が即ち此本であり升、と云つて見せた。大隅太夫と云ふ男は、不断の事のズボラな事と云つたら比類ない位であるが、芸道の事になると、此通りの事が沢山あるのである。太夫が一段の浄曲に対する、苦心研鑽は、大抵コンナ物である。此を今時の太夫は、碌に稽古もせずに、自分の智恵才覚斗りで、好加減に語り廻して暮して居る。其了簡は実に憎みても余りある事である。
 奥の『お米は独り』からが、染太夫場であるが、秋の夜のメリ込むやうに、淋しき貧家の暗闇に、一人の節婦が眠りもやらず、夫の為めに、恐ろしき決心をする境涯を語り出す、太夫の腹構へこそ真の涅槃経である。お米の「サワリ」が、尤も染太夫風の漂ふ処である。『一たん本腹』の「カヽリ」の節は腹で語る。『此頃は』は付かずに、『色々介抱尽せ共』は「ウレイ」で浮いて語る。『此近所で御養生』も浮いて語る。『其貢に』も同じく。『先程のお咄しには』も同じく。『金銀づくでは無いとの噂』の『金銀尽く』は上離れに、『無いとのヲーーォォ、オ、ウワサ』と足を極めて息を持つて語らねば、「テン」と弾けぬ。夫が真西風、四ッ間の拵へである。詰まり平作の追掛けまでが、本当の三段目、太夫のクセ風格を辿る難物である。夫から『実に人心様々に』からは、本当に端場、落合から修業仕上げた太夫でなければ、決して語りも、真似も出来る訳のものでないとの事である。皆グズ/\デコ/\と、下手の講釈を聴くやうである。其サラ/\と芸位高き所に、無限の人情の漂ふやうに語り捨てる意味は、今時の餅搗太夫では歯も立たぬ仕事である。何を措いても性根を入れて修業が第一である。修業のない物は、芸術とも美術とも名は付けられぬのである。