(六十一) 新板歌祭文 お染 久松 野崎村の段

 此段は、安永九年子の九月(大正十五年を距る百四十七年前)竹本座にて、竹本組太夫の役場であつたと聞く。
 此人は天性の悪声であつたそうだが、野崎村丈けは実に古今無双の上出来で、後生幾多の名人が出ても、此風丈けは、イジル芸力の者が無かつたとの事である。此人は悪声の為め総ての音の止まりが「二」を放した処にも、「一」を放した処にも落ず、只だ「三」を放した処に斗り落て、夫以下には下らなかつたとの事で、其悪い処を利用して、凝りに/\凝り抜いて、此一段を作り出したので、作者の近松半二は花飾の大傘を拵へて、組太夫の立看板を覆うたとの事である。組太夫一代の名誉は、今日まで、其音節が替らぬのである。
 先づ『鉄漿の付けやう』の音の落処、『切つても切れぬ』の音の落処、『堤伝ひを漸々と』の音の落処其他沢山あるが、『私しやなんぼでも得切らぬ』の音の落処、『晴間は更になかりけり』の音の落処等、三味線の「トン、ジヤン、ツン、テン」等に付かず、音の離れた処が云ひ得られぬ派手な「サワリ」になつて、遂に此段の風をなしたとの事である。故摂津大掾曰く、
「私は天保年中に生れましたが、同年代の者の記憶では、野崎村を当り前の風に語つて、成功した人は無いとの事、私は悪声では厶りませぬが、難声の為め、松葉屋(故廣助)と相談致しまして、渡世の出来る丈けの野崎村には纏めて語つて居りましたが、其後団平さんに弾いて貰ひます時に、三四日も語りまして、団平さんが何とも申しませぬから、此語り方でドウであらうか、と尋ねましたら、団平さんが、ハア結構、誠に能く出来て居り升、私はアンタの師匠春さんを弾して貰ひまして、本当の組さんの風で語つて居られたが、中々苦心して骨を折られる割には、実入が薄かつた。私はアンタの語んなはる通りに弾いて居升が、アンタのは自分の力を知つて、力相応の商売、渡世をして居なはると思つて居りました。夫が本当の纏まりの付いた芸で、私は夫をイジル力はありませぬ、此野崎村丈けは、夫で押し通しなはれ、と云はれました。此咄を聞いて、私ゾーッと致しましたが、是程永年悪る塊りに、かたまつた物を、今急にドウすると云ふ力も厶りませぬから、トウ/\夫で通しました。左すれば私も、不成功者の一人で、昔日、命掛けで苦心の修養をしやはつた、組さんには、矢張り相済まぬ芸人で終る事になりました。貴下は今の大隅が語る野崎をお聞になりましたか、アレが初めの枕に『跡に娘は気もいそ/\』と語り出す処、ドス声で汚ない音遣ひを致しまして「三上」の音から放した音を、ウネ/\と遣ひ分けて行升処、アレが師匠春太夫の語りました通りの悪化したので厶り升、アレを聞升度に、私は師匠の事を思ひ出しまして、苦心して居ましたが、私ではドウ遣つても師匠の真似が出来ませぬから、程能く都合を致しまして、此位の処に語つて居升、夫を団平さんに尋ねれば、前申したやうに云はれ升から私も野崎村では、ハーア俺も折角太夫に生れて、トウ/\野崎村丈けは、当り前に語れずに終るのか、と度々歎息致しました」
と云つた。此摂津大掾の述懐を聞いた庵主も、亦身をソラス程驚いた。アレ程面白い大掾の野崎は大掾、松葉屋の製造物で、商売渡世の為めに、余儀なく語る音節であつたかと思ひ、夫から根ほり葉ほり聞いて、ボツ/\と教へて貰つたのが、前に云ふ通りの癖物である。故に庵主は野崎村に付いては、今の太夫の語るのを、善とも悪いとも批評する資格を有せぬのである。唯後学参考の為に庵主が聞た丈けの事を書て置くのである。