(五十九) 恋娘昔八丈 (*下の巻)鈴ヶ森の段

 此外題は、安永四年未の九月九日(大正十五年を距る百五十二年前)江戸薩摩小平座、名代新太夫にて、操人形にて興行したとの事。作者は松貫四、吉田角丸との事。此場は所謂追出物にて役場と云ふ程の物では無いが、五行本に竹本此太夫、鶴沢仲助と書いたのもあれども、此等の風は全く一時限の事であつたとの事。又高名集などに豊竹百合太夫とあれども、此も書下しの時のまゝ格別風も残つて居らぬとの事。夫が今日のやうに流行せしとは不思議な事である。一時は立派な真打の太夫が、切に之を語つた物である。今の朝太夫や松太郎も、之を得意として語つて居たのを聞いた事がある。何れ書下しの時には、格別でない太夫が語つて居た物に相違ないが、夫が斯くの如き勢ひで流行したとは、ドウ云ふ訳であらうか。庵主は之を古老に聞いた事があるから、人々の心得の為め、参考に書いて置くのは、咄の消滅せぬ為めである。
 昔日竹本春太夫が、何か座方と折合の悪るい時に、門弟斗りを引連れて、大阪の北の明地に舞台を掛けて、人形芝居を語つて居た時があつた。其時江戸で弟子にした、道楽者の織太夫と云ふのが尻切絆纏一枚を着て手便つて来た。師匠春太夫は、其不身持を叱りは仕たが、仕方もないから、古着物の一枚も遣つて、遊ばせて置く訳にも行かぬから、今夜から俺の追出しでも語れと云つた。処が、其追出しは一日更りで初心な弟子共が、鈴ケ森を語つていた。夫が此織太夫の役となつたのである。処が其晩語つた鈴ケ森と云ふのが、実に聴衆も楽屋も驚く斗りの妙音に、芸力の至極を尽したので、殆んど師匠を喰はん斗りの出来であつたとの事。夫から春太夫は織太夫を呼んで、何処で此鈴ヶ森の稽古を仕たかと聞いたら、織太夫日く、
 「曽て江戸の文蔵師匠が、観音様信仰である所から、浅草の境内で千人寄せと云ふ奉納を、野天で五日間せられました時、声の通る奴の方がよいと云ふので、私を呼んで、弾いて遣るから語れと申されましたから、出し物を聞ましたら、江戸書下しの内が良いから、先づ鈴ケ森位が好からうと申されました。私は鈴ケ森は知りませぬと申しましたら、夫なら俺が朱を付かへて置いた、鈴ケ森がある、夫を教へて遣るから稽古をしろと申されました、お稽古を願ふて五日間語りましたので厶り升」
と答へたので、春太夫は感心して、
「毎晩芸を麁末にせぬやう、大事に語れよ」
と云つたそうだが、夫から毎晩織大夫の鈴ケ森が大当りとなつて、大入で打上げたので、誰れも彼れも稽古を始めたとの事である。其次に春太夫が芝居に帰つて語る時に、先代萩の御殿を語る事になつた。処が、直に此織太夫に、竹の間の役を付けて稽古をして遣つたので、門弟一同は大不平を起したとの事。然るに初日が出ると、此織太夫の竹の間が、ズバ抜けて良かつたので、又大阪中の評判となつて、織太夫は師匠のお蔭で一人前の太夫に成つたとの事である。其後の咄も色々聞いた事もあるが、不同異説も多くて咄が間違つて居るかも知れぬから、是丈け位で省略するが、此等が修業の光明と云ふ物である。即ち其受持の太夫に因つて、語り活かされたと断言して良いのである。義太夫節千番の外題でも、古の名人太夫が、一生の中には、色々の書下しを、幾十段語り始めたか知れぬが、大概出来が悪るくて、其内で一番上出来の物、即ち風格の総てが今日の時代まで残つて流行して居るのは、幾らも無いのである。庵主の考へでは、ザット三十段の流行物を引いて除けたら、跡は一寸ビラの利かぬ聴人を引付けるやうな物は少ないのである。其以外の外題で、今まで流行せざりし物を、一人の太夫に依りて語り活かされて、流行するやうに成つた物が、一段でも有つたら、夫こそ芸道の上からは大変な事件で、金鵄勲章である。先づ此の織太夫の鈴ケ森や、竹の間は勿論夫であるが、其他にもお柳子別れの段の如き、巴太夫と云ふ立派な太夫が語つても、余り流行せず、其後綱太夫が語つても、余りドットせず、終りに麓太夫が語つて、非常に流行出したとの事。又三勝半七酒屋の段も、組太夫が語つても余り流行せざりしを、靭太夫と云ふ人が語り出して、今日の如く流行する様に成つたとの事。又中将姫類の外題も、岡本文弥が語つても、宇治加賀掾が語つても、西の元祖筑後掾が語つても、東の元祖越前掾が語つても、後に綱太夫が増補して語つても格別世の中に流行せぬのに、最後の後進生竹本摂津大掾が語つたので、今日の如く流行して来たと云ふは、全く芸と云ふ物は、一種特別の努力に触れると、触れぬとに依る物と云ふことが分るのである。最終に全くの素人衆の、十山と云ふ人に語らせる積りで、摂津大掾の師匠亀之助が、手を付けて語らせた鎌腹を、大隅太夫が十山や大掾に稽古をして貰つて、これ丈け流行するやように成つたと云ふのは、何れも語り活かす力丈けは持つて居たに相違ないのである。元来芸と云ふ物は、一杯と云ふのが原則である。故に小娘の芸は、一合枡であつても、芸の総てが一杯に成つて居れば、聴衆は充満して、幾年の後にでも夫が残る。仮令摂津大掾や、大隅太夫は一斗枡で有つても、八分の量りでは、其の時限りに消滅して、後年に残らぬ故、小娘の一合桝の一杯の方が勝利を得る訳である。故に元祖以来の大家でも、語り下しが後に残らずして、却つて百年後の太夫のぺー/\に、其外題が語り活かされた物があつて、流行したとすれば、其ペーペィに芸道の勝負は慥かに負けたのである。故に此鈴ケ森を語つた織太夫は、慥かに語り活かして、芸道の勝利を占めた人には相違ないのである。
 今日まで庵主の拝聴した太夫衆は、一段でも語り活かした、外題があるであらうか。アラユル外題の死骸は山を築く程、語り殺した物斗りでは有るまいか。左すれば今日まで取つた給金は、語り殺し賃である事になる。若し何か語り活かした物があるのなら、ドウか其外題の名を聞かせて貰いたい物である。