此の外題は、初代土佐太夫、即ぢ播磨大掾と、初代鶴澤寛治が書下しを語つたと云ひ伝へられて居れども、此説は庵主には分らぬのである。安永四年未の八月に(大正十五年を距る百五十二年前)豊竹島太夫座に於て、島太夫と春太夫とが、一日代りに勤めたと聞いたが、此方はソーであるらしく思ふ。作者は一寸とマダ調べが付かぬ。何でも興業師某と丸本には書いてはあるが、確実な事が分り次第更に書く事にする。庵主は、竹本大隅太夫が此段を語るのを、始めて聞いて、身に泌む程面白味を感じたが、其前明治二十七年三月の末に、大阪文楽座にて、竹本摂津大掾(二代目越路)と豊澤広助とが演ずるのを聞いた時は、マダ聞く力も付かぬ時ではあつたが、其有常の品位と、琴歌の面白さと、母親の詞遣ひの面白さとは、今尚ほ忘るゝ事が出来ぬのである。
庵主は元来、此段は碌に稽古を仕て貰つた事も、語つた事もないけれども、此段の風格が好きで今でも無埋に語れと云はるれば、兎や角辿る位は出来る積りで居る。夫れ位に此段が好で、研究したのである。又大掾、大隅の語るのを、聞いた時から、其中で覚へて居る事を、忘れぬ為めに少し斗り書いて置くのである。
先づ要諦丈けを云へば
一、此段の枕は、豆四郎と、信夫との忠臣貞女が二人とも、死ぬ事を概括した文句故、極々浸み込むやうに陰気に語る事。
二、母の詞遣ひは田舎詞の中に無邪気、正直と云ふ一ツの品合を語る事、是が加減物にて、中々六ヶ敷、此詞が語れねば外の人形の詞がサツパリ立たぬ事になる事。
三、信夫の詞遣ひは、往昔は「幽霊詞」にとまで云ひ伝へられた事もあつた由にて心に始終怖気を持つて、絶望の中に、夫に対する愛情を失はぬやうに語る事。
四、有常の詞遣ひは品のある中に、強い処があつて、「変り」に能く気を付けてサラ/\と修業する事。
五、豆四郎は大抵、太夫の才覚で語つてよいとの事である。
大掾の語つた時に、『アレかゝさんあんな事云ふてじやわいな、サヽよいわいの』と云つた時は、見物は皆顔見合せた事が、今に残つて居る。其詞の盛り方は、口で云ふのでは、何べん云つても云へる物ではない。腹の中に此段を呑込み、信夫の一杯の心持にならねば、決して云はれぬ事である。
『ドウしてそなたの、さればいな』から、信夫の詞は、何らの怖気もない、当然の事を仕て来たと云ふ、心持の詞遣ひの中に、恐ろしい気合が聴衆に移らねばならぬのである。
『アヽ有がたし/\』からの豆四郎の詞は時代に「変る」のである。
『云ふに云はれぬ身の科を、隠す心ぞいじらしゝ』と語る時は、此乙女心を思ひ遣つて、聴衆一般に、云ひ得られぬ、引締りが付かねばならぬ。
大隅が語る時、『ホヽ今宵の中にお供して、此所を立退く所存』を締つた小声で云つて、『がコレ、そなたは母に勘当受キや』と叫んだ、その腹組と声は、当時聞いた人は誰人も心根に徹する程記憶して居るであろふと思ふ。
大掾が語る時、『振上は上ながら、心の内は神仏、赦してたべと心願祈願』と云つた時は、モウ目が血走つて居た。又
『ホヽウ、不孝を尽し愛想を尽かされ、親子の縁を切らずんば、母への孝は立まじと、立出る紀の有常』と云つた、其声は常にない遠ざかつたやうな声であつた。
大掾も大隅も、『アイと返事はしながらも親と夫の憂別れ』と語る時は、庵主の耳には、慥かに浄瑠璃を離れて居たと聞へた。夫でこそ他の外題に、比較する物もない程、此琴歌が悲愴になつたのであると思ふ。