此段は明和九年辰の十二月(とあれども明和は十一月二十五日に改元になつて居るから十一月か安永元年十二月かならんと思ふ)(大正十五年を距る百五十五年前)豊竹座に上場し、作者は竹本三郎兵衛、豊竹応律、八民半七と聞く。又役場は綱太夫と聞いて居るのである。何様此場は昔から三味線の運の六ケ敷ので名高い物であつて、綱太夫の成功した割合に余り後人が摸倣し得なかつたと云ふ事てあつたが、天保時代に靱太夫と云ふ人が、抜る程修業をして、運びの間を夫是と変て面白く語り生かしたと云ふ風が土台となつて、今日の風となつて居るとの事である。今日に於ける其語り方に付いては、十人十色、いろ/\の事を云つて居るが、庵主の微力では、ドレが正しいとの裁判は出来ぬのである。夫は皆全体の考えが、庵主の考とは違つて居るからである。元来他の音曲には、皆家元と云ふ物があつて、大抵其風格が極つて居るが、此義太夫節には夫がない。強ひて云へば、一段一段の家元は屹度あるのである。ナゼならば、斯芸は其劇の組立が如何にも大きいから大序から大切まで、一人で研究して語り得る人がなかつた。朝の五時頃から晩の九時頃まで、一人で語る事は出来ないから、只だ一段々々丈けが、精一ぱいの芸てある。故に此段でも、先づ綱太夫風を土台として、好いとか悪いとかは云へるかも知らぬが、各人各個に勝手/\に語つて置いて、ドレが良いか、悪いかと問はれても、夫は到着点なしの、マラソン競争に、勝負を論ずるやうな物である。庵主に云はすれば、先づ初め綱太夫が語つた物ならば、其綱太夫風を知らねばならぬと思ふ。綱太夫風は前にも云ふ通り、初二代とも、浄瑠璃を極々陰気に締めて語つて、三味線の方では出来る丈け陽気に弾いて、夫がカラミ合つて、面白い曲情を残すと云ふのが、此人生涯の苦心であつたと聞いて居るから、先づ其修業をするのである。夫を徹底的に遣り抜いたのが靱太夫である。彼の浪花節や、筑前琵琶のやうに、楽器の方と別々に、勝手に云ひたい事を云ふのは、音曲ても何でもない。只だ鑑札を受けて、飯を喰ふ芸人とは云へるであらうが、芸術家は音曲の掟を知らねばならぬ。丁度文字に王義之(**王羲之)や趙子昂があるやうに、同文字でも、先輩の各大家には、書き方と運筆の方法が違つておる。夫を知つて学んで、字を書いて字の風が極るのである。今の学佼の生徒のやうに、鉛筆やペンで、縦に書いたり、横に書いたりして、字の風格と云ふ芸術論が出来やうか。夫は読む丈けの字である。故に今の義太夫節は、勝手の音を遣ひ、勝手の間を弾く。故に之を素読太夫と云つて何が差支へがあらうそ。今の太夫共は、ヤレ『こそ』とかゝつて来たら、『れ』と結ばねばならぬの、ヤレ『中ぞ』とかゝつて来たらば、『あはれなる』と結ばねばならぬなどゝ、ソンナ事の研究斗りをして居るが、夫は作者と、学者の受持ちである。一度聞けば直に其間違は改良される事である。三味線は『入相の鐘に散り行く花よりも』と弾くのならば、ドウ弾けば『入相の鐘』になるかと「シアン」と弾くにも、其心持を修業する役目である。夫で太夫もドウ語れば『入相の鐘』になるかと修業するのである。夫が太夫の受持である。文章には三味線弾も太夫も関係はない。其関係のない事斗りに、太夫が凝つて居るから、天下一人も『入相の鐘』の弾ける奴も、語れる奴も居らぬ事になるのである。夫に善悪を評せよと云ふのは、云ふ方が無理である。先年庵主が大贔屓の故清六が、東京の有楽座で沼津を弾く時、『いとしん/\と聞へける』と、古靱太夫が語る時、清六はモドカシクて堪らぬので、「トン/\/\/\/\ジヤン」と捨撥に弾いた。庵主は清六を呼付けて、
「お前は大隅太夫の初役の沼津を文楽で弾いて居るが、あんナ「フシ」の弾様で、大隅太夫は『お米は一人物思ひ』と語つたか、古靱太夫が如何程お前より下級な太夫であつても、『お米は一人物思ひ』と云へぬぞへ、小言を云つて叱るのは修業の神聖じやから、叱るも結構じやが、叱るなら叱るやうに、叱る道を自分に明けて、叱らねば修業にはならぬぞ」
と云つたら、清六は頭の毛の中から汗を出して、庵主に過まつた事がある。夫から其興行は、一日も洩さず庵主は聞いたが、清六が毎日、其の太夫の心持を抱へて弾いたのには、庵主斗りでなく、満場の受けであつて、此時の興行の事は、今に東京の素人玄人間にも、清六の三昧線は/\/\と尚ほ語り草に残つて居るのである。此で其芸人の心掛けと、修業の力量であると云ふ事が分るのである。夫が此三勝半七酒屋の段程、世の中に語り崩して居る物はないから、誰か一度は豪い太夫と三味線弾が、息を吹返す丈けに、生かして呉れねば、聞いては居られぬのである。併し此の義太夫節と云ふ芸の力は、又格別の物で、此間、庵主の家に来る、植木屋の親爺が、大の酒屋の段好で、曰く、
「旦那、私しやアお屋敷に永年お出入をして、常に女太夫の酒屋斗りを聞に行きますが、実に面白う厶い升、私しやア酒屋とさへ聞けば、ドコまでも行升、併し旦那、此頃の寄席は、木戸が六十銭で、蒲団が五銭で、鮨が二十五銭で、煙草盆とで、先づザット一両掛り升、コチトラの給金二円五十銭から、一円を酒屋の段に放り出しまして、一円五十銭を持つて帰り升と、其度毎に嚊と子供等とを相手に、喧嘩をオッ始め升、夫でも酒屋の段のビラを見升と、聞かずにやア居られません」
と云つた。何と是は太夫の力で、此植木屋の親爺の金一円を捲上げて居ると思はれやうか。即ち明和九年から、大正十五年まで百五十五年の間を貫いた、全く義太夫節の力である。三郎兵衛、応律平七の力である。否綱太夫、靱太夫の力である。否其時弾いた三味線弾の力である。女房子と喧嘩をしても、財布の一円を放り出させる力は、政府が軍艦を買ふ力よりも、広大な物であると云ふ事が出来るのてある。夫程の聞人を抱えて居ながら、今の太夫や、三味線弾は、今日のやうな芸を仕て居て、冥利に叶ふと思はれようか。全く今の義太夫節は、天狗倒れ、素人崩れの時代と云つて宜いのである。
先年大阪の角座で、涼浄瑠璃に、故大隅太夫の此酒屋の段を聞いた事がある。即ち故清六が弾いて居た。此時伊達太夫の日吉丸で、吉三郎が弾き、春子太夫の白石揚屋で、故二代目団平が弾き、長子太夫の八百屋で、今の叶が弾いて居たが、此酒屋一段で、皆ナ暴風の前の胡蝶のやうに飛んで仕舞つた。清六は其翌日に来て、斯く云つた、
「私は三味線弾になりまして、幾百度と此酒屋の段を弾ましたが、アンナ重たいサラ/\した、酒屋を弾いた事がオマヘン、其間と云つたら、油断も隙もなりまへん、大隅師匠の素浄瑠璃丈けに私が押されました精かも知れませぬが、今に撥が手にコビリ付いて居るやうで、マダ体が痛う厶り升」
と云つて居た。庵主は、
「アンナ柔かな、情の深いサラ/\した酒屋を聞いた事がない、お前の三味線は、皆情合にカラミ付いて、面白さに俺は泣いて居た」
と云つて、清六に褒美を遣つた事がある。其時の事を越路太夫に咄したら、
「成程面白ふ厶い升ナ、私も一つ凝つて見ます」
と云つた。其後吉兵衛が来て、
「越路さんから酒屋の咄を聞ましたが、今二人とも思案して居る処で厶り升」
云つて居た。今其時の咄を少し書いて見やう。
『鐘に散り行く』は成丈け遠い鐘に語る事。『あたら盛りを独り寝の』は宗岸の「地合」に語る事。即ちお園が小紋の紋付に、黒繻子の帯をして、髪を橋かけに結つて、先に立つて行く姿を、後から宗岸が見て、「アヽ気の毒じやナァ」と云ふ心持を、情合に語る事。ソンナ陰気な情合を、大事に語るのが、綱太夫風と聞いて居る。『子故に』の「ウクオクリ」は成丈け憂に沈んで、『暗らむ』と語る事。「テン」で憂に沈んで居た宗岸がフット気が付いて、足を変へて『タ、ソ、ガ、レヱ、ドーヲーヲーキ』「トン/\/\/\/\/\ジャン」と早く弾く事。婆々は笑はぬがよい。『奥そこもなく』は、『奥』と止まらぬ事。宗岸は憂の情を腹に持つて、泣かぬがよい。半兵衛は気の毒の心を腹に持つてノソ/\と物を云ふ事。『ドンに生れた』が、皆「ギン」に落て居る。此は「ウレイ」の譜(つぼ)に下るじや。「ギン」は、お園の一人口説になつてからの事。大体が綱太夫にも、靱太夫にも「チン/\/\」との呼出は無い。「チン」『鈍に』と「ウレイ」に直ぐ落ちても好い位である。半兵衛の咳は、後年の太夫が語つたと聞いたが、又靱太夫も語つたとも聞いて居るが、ドッチか分らぬ。お園の一人口説の地合に「ギン」の遣い方を修業せねばならぬ。段切近くなつて来ては、十内の詞もヒッくるめて、サラ/\とした勢ひで語る事。是とは違へども、綱太夫物は鰻谷の骨桶が了へで、捕手から四ッ橋の段切りまでや、躄の奴筆助の詞から段切までの勢や、阿漕の宇内の詞から、よみぢへ急ぐ一文字までの段切までの勢の如く、皆此風の意味が漂つて居るものと思はねばならぬ。