(五十三) 妹背山婦女庭訓 竹に雀の段(*御殿の段)

 此外題は元近松門左衛門作と聞いたが、後明和八年卯正月(大正十五年を距る百五十六年前)近松半二、松田婆々、栄善平、近松東南、後見三好松洛等にて取纏め、竹本座に上場した狂言であると聞く。劇界にては、古今の名作として、太夫も春太夫、染太夫、綱太夫、咲太夫、島太夫、三根太夫、梶太夫等の腕揃ひにて出勤したとの事。此段の役場は竹本春太夫と聞く。何様床本にて僅か三十枚前後の小冊が、四段目の切り太夫の役であるから、夫れ丈け責任の重き事は、問はずして分るのである。此春太夫の風は「色」の語り分けに一つの間違なく「乗る」事の名人、「フシ絞り」の名人にて、「ツトン/\/\/\、ジヤン」と締めるのに、 一生の中に一度も息を抜いた事なく、チヤンと詰めて待つて居て「ジヤン」との締めで息を取つた位であるとの事であるから、此人で総ての太夫の語り風が変つたと云ふ位であるとの事。夫だから総てに余程注意をして修業をせねば、此四段目丈けは語られぬのである。
 庵主が曽て此段を、故摂津大掾に習ふ時、昼は文楽で聞いて、夜は大掾が膝を叩いて小言を云ふので、フツ/\と困却した。何様六尺大の男が、お三輪の真似をするのであるから、出来ぬが当り前と思ひ、
 「師匠、私は角力と撃剣なら素人では一寸半人前位は遣れると思ふが、此お三輪の真似斗りは到底出来ぬよ」
と云ふと、大掾は目を刮き出し、
「アンタが真似を仕やうとなされ升から出来ませぬ、 浄瑠璃は真似事では厶リません、私は先年、京都の祗園のお茶屋で、其家の旦那に組太夫が、此四段目のお稽古をして居るのを、隣座敷で聞まして感心しました、アンタの声も悪いが、組太夫の声とはドツチがよいと思ひなはる、アンタの方がズツト宜ろしい、夫程悪い声で、組太夫のお三輪はチヤンとお三輪に成つて居ました、却つて金輪五郎の方が品が悪ふございました、決してお三輪の真似ではござりませんぞ、お三輪の心持になるのでござります、夫には作者がお三輪の心持で文章を書いて居やはりますから、アンタも其文章を読んで、お三輪の心持になつて習ふた節と、詞を稽古しなはるので厶ります、夫が出来ねば人ではござりません、アンタが一度聞いて覚へなはるか、十度聞いて覚へなはるかはアンタの賢こさに依りますが、夫が分らぬと云ふのは、アンタの御熱心がマダ芸道の修業までになつて居やはらぬのじや」
とコツぴどく叩き下ろされたのである。此段に付いて又コンナ咄がある。夫は大隅太夫が文楽に這入つて後、大掾が此四段目を語つた。其楽屋の何処にか大隅太夫と南部太夫とが居た時、床では大掾が『たぶさつかんで氷の刃、脇腹グツト……差通せば』と語つて居るのを大隅が聞いて、
「ハヽア師匠もモウ年を取りやハツタから、金輪五郎今国の刃が錆て来たわい」
と独り言を云つた。夫を脇で聞いた南部太夫が、師匠の大掾に告げたので、大隅は大掾に呼付けられてウンと叱られたと、庵主が聞いて居たが、其翌晩に大隅が庵主の宿に来て、
「旦那はん、昨日は二見の師匠に呼付けられまして、ドエライ目に遭ひましたよ、併し旦那はん、私は一生に又とない得を致しましたぜ」
と云ふから、
「ドンナ事であつたか」
と聞くと、
「夫がナア、私が阿房じやから起つた事ダンネ、併し阿房かて又得する事もオマスわいな、師匠が帰り掛に隙があつたら、今夜一寸宅に来てくれと、云置いて帰きやはりましたから、何事か知らんと思ふて行ますと、二階に連れて行かれまして、ナア大隅お前は師匠が四段目を語りやはる時はヨウ聞いても居なかつたらうし、又役も付かなかつたかも知らぬから、モウ年を取つて弟子に小言も言はねばならぬサカイ、恥を播くとイカンから、云つて聞かすから、ヨウ聞いときなハレ。私は此四段目を師匠の語りやハル時、抜ける程聞いても居るケド、どふも録に語れぬ、併し語る道には相当苦労を仕て居るサカイ、咄丈は出来るから咄すのじや、此は師匠の取次と思ふて聞なハレ、此四段目は初代春太夫さんから師匠春太夫まで、お家物として、夫は/\八ケ釜敷苦労仕やはつたモンヤ、私も団平師に弾いて貰うて、此段を語る時、困つたナア……難儀ヤナア……ドウも弾けんわい/\/\/\、と毎日云ふて、「色」と「フシ尻」を八ケ釜敷く云ふて弾かれた、お蔭で今は語つて見る気にもなれるが、一字一句油断の出来る品物ではない、デ『たぶさつかんで氷の刃、脇腹ぐつと差通せば』此金輪五郎の刃は、決して錆ては居らぬが、藤原の御内第一の忠臣で、入鹿を殺して天智天皇様の御代に仕よふと云ふ人じやから、心には忠義の道と慈悲の涙とが満ち/\たお方じや、其人が入鹿を亡ぼす手立の為めに、若い女の生血が入用で、お三輪を殺しやはるのじやサカイ、お三輪には只だ可愛想な斗ツかりで、少しも憎い心はないのじやぞ、其人がグウツーーと、差通しやはるのじやサカイ、只のグウツトとは違ふぜ、私が稽古して貰ふ時『脇腹、グウツト』と云ふと、アヽイカン/\/\/\と云はれて、途方に暮れた、夫から師匠の語りやはるのを聞くと、『たぶさつかんで氷の刃、脇腹グツ……と(*グツ……ト)』云やはる時は、モウ其前から師匠の眼は血走つて居て『脇腹ア……ラ、グウ……と』になるまで、何とも云はれぬ「間」がある、 ハヽア茲じやナと思つて、其晩に師匠の酒の燗をする時、お師匠はん、今国が刃をお三輪に突込む時は可愛想にナアーと思つて突込んだら宜ふおますか、と云つたら、師匠は酒を呑み止めて、今日聞いたか、と云やはるから、 ハイ聞かして貰いまして、ヤツと夫丈け考へました、と云ふたら、ムウ少しは四段目が分つて来たナア、其処まで分れば云つて聞かす、『たぶさつかんで氷の刃、脇腹ア……ラ』と語つて居る中に、お腹の中で、可愛想に気の毒じやが死んでくれと云ふのじや、夫から『グウツ…』と云ふ前には、南無阿弥陀仏と云ふ「間」があるのじやぞ、俺は師匠にそう聞いて居るから宜ふ覚へておけ、と云はれた時の私の嬉しさ、思はず畳半畳下つて有難うございます、と云つて、涙が止まらぬ程嬉しかつた。お前も語る語らぬは別として、妹背山が立つたら、弟子には稽古もして遣らねばならぬ、其時の為に云つて置くから、ヨウ覚ヘといてお呉れ。と云はれた時は、旦那、私ア夢のやうな気に成ましてナア、心の底から有難いと思ひまして、汗と涙で二見の師匠に礼を申ました。此を一つ教へて貰ひますれば皆何処でも同じ事と思ひまして昨晩から今朝まで四段目の本を読んで来ましたから、此咄を旦那はんに一ぺん仕て置かぬ事には二見の師匠にも済まぬと思ふて出て来ました」
と又額に汗をニジまして、大隅が咄したのである。此大隅と云ふ男は芸に掛けては恐ろしい男であるが、只の時は何事にも分別のない男で、見た事聞いた事を黙つては居れぬ便りない男である。夫に芸道の金太郎で、何時でも源太左衛門で居る。「凡浄瑠璃一通りに於ては日本に楯突く者なき源太左衛門である」其大隅が此程の咄は余程弱り抜いた物と思はれる。後の世の美譚と思つて書いておく。此から庵主の恥掻を咄し、
○『迷ひはぐれし』此「ハルフシ」は高く明かるく廻す事。
○『片うづら、草のなびくを知べにて』は『カアタアウウズウラ、草のなびく』
大掾曰く「『草のなびく』だすぜ、ナゼそふ語んなはれぬ、ソ……そないに体で語りやはつては見ともなふおますがナ、「腹ノり」の心持で語んなはれ」
○『息せきお三輪は走(さ(*はし))り入』
大掾曰く「ソウ「色」を云やはつては、チツともお三輪は息せき走り入つて居ませぬがな、『イキセキお三輪アーーは(是に息の間があつて)走り入』「ツン/\」でおますがナ」
○『卯月あたりのはじけまめ、豆腐の御用が急ぐにと』
大掾曰く「『卯月あたりは』ネばつて面白く、此で気を易へて『ヲヽ豆腐の御用』と足をかへるのだす」
○『行かんとせしが、イヤ/\/\』
大掾曰く「此「色」も息の間がおます」
○『と云ふて此儘に』
大掾曰く「此「テン」にも前と同じ」
○『長廊下』『恨み色なる紫の』
大掾曰く「皆「フシ」に意味があります」
○『前後正体泣き倒れ』
庵主曰く「是まで来ると此四段目が何とも彼とも云はれぬ程重たくなつて来て、此お三輪の心持にドウすれば成れるかと思ふと、モウ語られぬやうになる物である。口では云はれぬ只だ見物も何もなく、夢現となつて力で語るのである」
○『口に食ひ占め身を震はし、 ヱ……ねたましや』
庵主曰く「是を大掾が語る時に聞いた人は知つても居やうが、夫こそ実に眼が血走つて居つた」
○『入鹿を亡す』で一寸止り『術の一つは』少し低く『ヲヽ、出かしたなアは』大きく。
庵主曰く「死んだ吉田玉造は、先の春太夫には此『ヲヽ』に今国が不憫の息があつて、『出かしたなア』と語つたと聞いたから、大掾に夫を尋ねて見たが、ウツカリ其処には気が付きませなんだ、と答へた」
○『とは云ふ物の今一度、ドウぞお顔が拝みたい』から『恋し/\と云ひ死に、思ひの玉の糸切れし』
庵主曰く「此の処も其頃聞いた人はよく覚へて居るであらうが、満場の世界は、只だお三輪の心情斗りに成つて仕舞つたのである。古人に嘸名人もあつたらうが、夫は聞かぬ昔の人の事である。庵主などの時代では此大掾の四段目以上の物を聞く事は出来ぬと、煮ヘる程面白かつた。其上茲によく注意せねばならぬ事は、此段で人を泣かす所は此所紙一枚より外ないのである。夫で前から段取を付けての責方が六ケ敷イのである。此丈け責めて置いて『因縁斯くと「チン」あわれなり』と大掾が語り収めた時は、講座が廻つても聴衆は一人も物を云はなかつたのである」