此外題は、元大近松の作であるのを、明和八年卯正月(大正十五年を距る百五十六年前)近松半二、松田婆々、栄善平、近松東南等が、三好松洛を後見として、種々改作加筆して、竹本座に上場したとの事である。役場は竹本綱太夫と聞く。綱太夫風は外の段でも委敷書いたから是には書ぬが、後世此段を語る太夫が、根本的に心得違ひをして、馬鹿にして語つて居るから、斯道の旗印とも云ふべき、妹背山二段目が其位を失ふのである。先年七五三太夫と云ふ者が、此段を語つて居たが何様、出場が朝の十時前位であるから、聴衆も少ないので、声の出次第に語つて居る。何でも今の鶴沢叶(*綱造の誤りに非ざるか?)などが子供の時位で弾いて居たと思ふが、五日目か六日目位に、庵主が聞に行つたら、サア俄かに緊張し出して、語る片手に息間の合はぬ所を、床本の端を頻りに折つて印しなどをして居たが、ソンナ事では生涯間に合ふ筈がないのである。ソンナ道楽な事で、此二段目の切が語れる物なら、斯道の意義も浅薄な物と極るが、此段は紋下の語り物として宜敷物である。其後染太夫が仙昇と云ふ三味線の絃で此役を語つて居たが、此は又美声と腹強でワン/\と云つて語り、仙昇も又撥強、腹強で叩き立てゝ居たから、丸で力士のマラソン競走を見るやうであつた。ニツとも是では二段目にはなつて居なかつた。夫で此段の上出来と云ふのは近年聞いた事がない。何でも明治三十年頃の春と思ふが、稲荷座で大隅太夫が此妹背山四段目の竹雀(*御殿)を語り、越太夫が杉酒屋を語り、組太夫が何処かを語つた時。たしか此二段目の切芝六の段(*芝六の内)を弥太夫が語つたかと思ふ。此は何でも庵主の腸に染み込んだ所が幾ケ所もあつたと見えて、今でも多少覚へて居る所がある。其頃は人形遣ひも余程良好かつたと見へて、桐竹亀松がおきじで、吉田玉松が芝六であつたと云ふ事が、今尚ほ眼の底に残つて居るのである。
先づ始の「ヲクリ」の『御殿へ入りにけり』は、此田舎の荒屋を御殿に語り出す「ヲクリ」で魂の這入つた力と息とが積んでの「ヲクリ」でなければならぬと聞いて居る。ソコデ『様子立聞女房が』と「カワリ」が付くのである。『心がゝり』と世話で云つて、「テン」『草臥さんしよ』は「地色で」云ふのである。「立寄つて』が「中」になると聞いて居る。夫から初まつて詞が、ソレハ/\心持と息合の面白い物となるのである。『しかも牝鹿は、覚へのギツクリ、ハ………』で大略、此段始終の悶着が思ひ遣られねばならぬ程語れねばならぬのである。『ぶち殺すは』と云つて息があつて、『常住の事』と軽くなるのである。此二段目に限つて、「中」と云ふ音遣ひには屹度気を許さぬ事。『毒蛇の口の一卜思案、心は後に出て行』と「フシ」(*「フシ」に)語るのであるが、『行ーーウウ、クーーウ』と語つた後、目の色をかへて息を詰めて居て『一間に様子立聞淡海、局々と呼出し』と「色」に語り。「詞」になつて『鍔元くつろげ立上る』までは殆んど一息に云ふ如く、急き込んで「マクレ」ずに云ふ事。夫からお雉子の詞を聞いて『ムウ、実に、一命を差出し、頼まるゝ程の玄上太郎、とは云ひながら草も木も、我大君の国なれど』と、最も品よく「カワリ」て語るのである。又「詞」で『今は草木にも心置かるゝ此時節』と打しほれて『スハと云はゞ用捨はならず』は剣幕で云ふ。『御前へ参つて返事を待つ』と意地を持つて云ふ事。斯様に綱太夫風は「カワリ」の篏込みに油断なく語る事。『サア兄さん、賃下され、饅頭ほしいと、ぐわんぜなき』と「フシ」に語る時は、モウ涙を催さねばならぬのである。夫から三作の詞の『イエ、狼狽はしませぬ』から『さらばでござる母様と』と云つたら皆泣の所として書いてあるのである。お雉子の「地詞」とも能く芸力を応用して『いとゞ食入る縛り縄』まで、夫相当に語らねば、後が困る事になるのである。『母は正体腰も抜け』から『土辺に蹉[足+它](**た)と身を打付け声をばかりの焦れ泣』までは最も大きい間で大股に語る事。一体後世普通の二段目太夫が是までゝ切るけれども、此段に限つて書下しが奥へ/\と、最も重く/\書いてある上に、文章でも『御目も将さに秋の田の、苅穂の庵の仮御殿』と作者滴身(*満身)の蘊蓄を、是で始めて傾け出してあるから、ドウしても此段の切太夫は、一杯に語り通さねばならぬ所と思ふ。故に『土辺に蹉?』の「フシ」を語つたら、全く気を変へて謡い心で『憂いを払ふ玉箒』と出るのである。「ナヲツテ」『いかな大事』からは「地色」に足を付けて語る事。「ヤア女性』からは総て酔詞で云ふ事。『祝つて一つ』と云つて一寸息があつて、『泣玉へ』と語るのである。『作よ作よは胸を裂く』と「地ハル」で強く、『妻のくるしみ』は、グツト云つて仕舞つて気を変へて、『イヽエイナ』と云ふ事。『ドウぞ此夜が、百クーーウ、ネン、ーーーーン、モーーウ』と語る時はお雉子の「地合」では絶頂の所である。『早やつき出す興福寺』と「ギン」の音を据えて物凄く語る事。夫から是で打つ鐘の撥は、古老の説にも色々あるやうであるが、五ツに分けて打つと云ふのが一番正しい物のやうに思はるゝのである。
先づ『興福寺』と語ると「ハツ」と三味線弾が「ウケ」て打つ、『ハア南無三宝』又「ハツ」と「ウケ」て打つ、『アノ鐘の』「ハツ」と「ウケ」て打つ、『数に縮まる』「ハツ」と「ウケ」て打つ、『子の寿命』「ハツ」と「ウケ」て打つて五ツになるのである。夫から『修羅の鐘、打切六は』で「ハツ」と「ウケ」て打つと、『ヤア知死期かと』狂気になつて語れとの教へであるとの事。『芝六居直つて声を上げ』からの物語りは、最も「ハツ」て語る事。鎌足の出からは又全く気を変へて出来る丈け品よく語つて、『十三鐘』まで鮮かに品を土台として語るとの事である。