(五十一) 神霊矢口渡 四段目切 頓兵衛内の段 

 此外題は明和七年寅の正月十六日(大正十五年を距る百五十七年前)江戸豊竹新太夫座に上場せし筈である。作者は当代の奇才平賀源内、即ち福内鬼外が、流麗の筆を弄んだ物との事。勿論初段の切に、三段目の口は、鬼外の筆に非ずとの事。役場は五行本に、津賀太夫場とあれども、矢張丸本にある通り、豊竹住太夫場として語るがよいと思ふ。元来、序切即ち義興出陣の場を、豊竹村太夫が語り、二段目の切即ち篠塚八郎注進の場を、豊竹絹太夫が語り、三段目の切即ち由井兵庫助忠義の段を、豊竹住太夫が語り、又四段目の切、艇梁場の段、是も豊竹住太夫が語つたと聞く。此段は多く手負のお舟が太鼓を打つ処まで語れども、此は落合の空中怨霊の段切まで、住太夫風で突抜いて語るがよいと思ふ。先づ口と中の豊竹伊久太夫、豊竹絹太夫の役なる頓兵衛出世物語りが済んで、義峰台が来て、『奥の一間へ入給ふ』との「送り」から、四段目になるのである。『跡打ながめ』の「地ハルフシ」から『娘のお舟』と「中」でズーーツと云つて仕舞ふのが、風である。故に六ケ敷のは、『アトウー、ウチーーイ、ナガアーーメ』と「息」があつて、『ムスウメヱノヲオフウネ』と又「息」があつて、『ホンニ、美しいと云ふか、可愛いらしいと云ふか』と止まつて、首ウナ垂れた心で『とても女に生るゝなら、アンナ殿御と添ふて見たい』と只云つて運ぶのが六ケ敷いのである。以下皆こんな息込である。『おぼこ娘のヒトーースジニ、思ひ乱るゝイトヲ、ススウキ』と「ウラギン」で、『穂にあらはれて』と「フシ」に語るのである。兎も角只だサラ/\と云つて仕舞ふ中に「息」と「間」がからんで、情が浮いて来るやうに修業するのである。往昔より此段は三味線弾などが何の味もない、雑用な譜が付けてあると、軽蔑すけれども、夫が大間違である。其何でもない所に、深い/\云ふに云はれぬ力の入る修業が必用になるのである。夫が即ち住太夫風である。何にせよ二代目政太夫西口ザコバ十兵衛と云はれて、播磨の掾の後を受た切語の大名人の高弟で、国根節と世に囃はれた三四ノ切語の大達者たる初代住太夫の語り風であるから、此人以後浄曲の語り方が一般に変つたと云ふ位で、此まで謳ふやうに崩れた物が、初めて語ると云ふ様になつたのである程の大問題故、浄曲は始終此人の風で改善されたのである。浄曲の修業が悪い為め皆下手になる。ソコデ何とかお茶を濁さねばならぬので、ウワ/\と謳ふ事になる。夫では浄瑠璃謳ひとなるから此住太夫風で、ヤット先輩が引直して、浄瑠璃語りになすのである。清水町の団平が、当代の太夫が、皆謳つて/\仕方がないから、大隅太夫や、組太夫を引付けて、此風で古浄瑠璃を本として鍛つて/\鍛ひ上げて、ヤットどうやら語るやうに仕たかと思ふとモウ僅かの年間、団平の死後今日の太夫では語り得る者は一人もなく即ち謳ふか只読か斗りとなつて来たので、浄瑠璃は何も恐ろしい事も怖い事もない芸となつて、誰でも遣れるやうに芸が堕落して来たのは、「息」と「間」と「足」とがない幽霊芸になつたから、斯く浄曲が衰微して、浪花節からでも、筑琵琵琶(*筑前琵琶)からでも、負けるやうになつたのである。即ち此の「矢口」のやうな物は、屹度其風を弁へて修業すれば、三味線弾も、太夫も其風を習得する好材料であると思ふ。即ち平賀流の文才名筆に成る『コレイナア、コレ、こちら向いて下さんせと、右よ左と付け廻す、琥珀の塵や磁石の針、粋も不粋も一様に、迷ふが上の迷なり』と書捨て又『なんぼ田舎生まれでも、惚たが因果惚れられたが、不肖と思つて下さんせ』「ハル、サワリ」となつて、『日影の木々も花咲けば、岩のはざまの溜り水、月も宿る(清めは住む世、ともある)を思ひ出に叶へてやらうとつい一口、云ふてくれたがよいわいなと、縋り付いたる袖袂、さはらで落る玉笹の、あられもないが恋路なり』と何の屈托もなく、書き運んだ名文に、付けてある譜は、又サラ/\として何の屈托もなく、全く文章に負けぬ力ある譜と思はるゝのである。此如き力ある物を、非力の三味線弾や、太夫が馬鹿にして、トウ/\世に流行らぬやうにして仕舞うたとは、何たる歎かはしい事であらう。夫から『斯くて時刻もひさ象の』の「地フレハル」(*「地ハルフシ」)から、『二十日田舎の月出て』の「本ブシ」となつて、『遠寺の鐘のかう/\と』の「ウギンガヽリ」となりて、太夫がソロ/\腹一杯の仕事に取掛るのである。夫から頓兵衛がお舟を床下より突いて、お舟の口説となり、終に合図の大鼓を打つて、村々の囲みを解かせんと心付く事となる。何たる面白い構想であらう。実に作者の働き気配りは目も廻る程である。
 此作より八十年ばかり後の嘉永年中に出来た、朝顔宿屋の如きは、全く此矢口から剰竊た物と思ふ。 一方は琴を弾かせ、此方は太鼓を打たせ、此方ではお舟を殺し、朝顔では眼を開けさせたのである。夫から同文同趣の『娘は死出の断末魔』、『夫を慕ふ執着心、蛇とも成るべき日高川』。『領巾麾山の悲しみも』、『是にはいかで勝るべき』とあるが、先づ『日高川』を「上」で『ヒーーダカガワ』と「地色」に押へて詰めて居ると「チチン」と弾く、其絃にて「上」で『ヒレフル』と止つて、「息」となつて、『ヤアマアーーアア』と又止つて、『ノーーヲーーヲーーヲヲヲ』と止まつて「息」となつて、『カナシミーーーイーーーイイ、モーーーヲヲヲヲ』段々声が力なく下つて来て『コーーヲ、レーーニーーハア、イーイ、カーア、デーエ、マサルベキ』となつて、『後は遠間に鳴る太鼓』「合」となる(或は『マサルベキ』の次が「合」になつてをるのもあるが、『鳴る太鼓』の下で「合」になるのが好い)。是が全部三味線弾の力業である。『鳴る太鼓』と太夫が云つて「息」を詰めたら、三味線が「ハツ………、トーーン」と打つ、ソコデ太夫が「ハアーーツ」と「息」を大きく引く、其「息」を取つて又「ハツ……トン」と打つ、又「ハアーーツ」と「息」を引く、斯くの如くして、昔江戸では三味線が「間」を少しづゝ攻めて、五ツ打つたとの事。其後は「トン/\/\/\/\/\」とお舟が落入つて、死んで仕舞ふ「息」になるのである。昔日江戸の文蔵の門弟が、
「お師匠様、矢口の太鼓を一生懸命に凝りまして、ドウ打つて見ても阿房らしくて、三ツより上は打てませぬ、ドウカお稽古を願升」
と云つたら、文蔵は暫く其者の顔を見詰めて、
「矢口の太鼓の撥が、三ツ当り前に打てたら、今ではお前は、江戸一番の三味線弾じや、三ツ打てたら結構じや、私は此歳まで其太鼓が打てぬのでまだ矢口の役を受け得ぬのじやがナア」
と云はれた時、其三味線弾は青くなつて引下つたと、咄に残つて居るのである。余程腹構へのある全く聴衆を馬鹿にして、此太鼓の撥を世に残してやると云ふやうな、力量の三味線弾でなければ中々打てる物ではないと聞いた。以下は普通の落合で、イサギヨク力任せにグイ/\語り捨てるのである。