(五十) 近江源氏先陣館 九ツ目切 高綱隠家の段
此外題は、明和六年丑十二月(大正十五年を距る百五十八年前)竹本再興座に上場せしと聞く。作者は近松半二、竹田平七、三好松洛、竹本三郎兵衛にて、役場は竹本綱太夫との事である。此段は音に名高き近九、即ち八ツ目、盛綱首実検、鐘太夫場の後、即ち義太夫節中に名高き長段の次にて、割に短かい物ではあるが、爾後の斯界を風動したる程、音遣ひ、運び方の六ヶ敷物である。故人竹本綾瀬太夫が、東京にて演ずるを聞いて、誠に其稽古も、語り方も面白く聞いたが、元来が大阪方面でも余り六ヶ敷て、派手でなく、語り得のゆかぬ物故、流行もせぬらしいが、昔は素人の天狗連などは、老練の師匠等に頼んで、火水に成つて稽古をして、語つた物であるとの事。彼の重太夫を弾いて居た鶴沢寛治が、二十一歳位の時、吉兵衛に稽古をした、素人の連中さんを弾き合せもせず抓み合で弾いて、素人玄人の別なく、ビツクリする程、面白く弾いたので、夫が評判になつて寛治も夫が芸道の売出となり、近九の段も、夫から一層流行して来たとの事である。
元来の仕組が、
一、佐々木が替へ玉斗り遣ふと云ふが、近江源氏の筋故、此段では琵琶湖の船頭になつて、石山敗軍の総大将、北条時政を、船に乗せて、自宅へ連れ込むと云ふ段である。
二、其連れ込まれたる北条時政も、又偽せ者で、互ひに謀計の為合ひ、嘘の吐き合ひをするのである。
三、妻の篝火も、全く船頭の世話女房ではあるが、又其時代に変る心持は、芸力の限りを尽さねばならぬ仕事である。
四、夫から、嘘の注進が、度々来る、其語り方が、夫ゝ息込が違はねばならぬ。
五、阿呆の盆太で、聴衆に涙を催させるやうに出来て居る。
六、 一番六ヶ敷事は、此段の品位である。
先づ『入さの月影』とあるが『入さーーの月』で切る事になつて居る。夫から『影さへくらく、じめじめーヱと』と最も据りのよい「中ギン」で運ぶ事。『空に、ちらつく雪よりも齢の』まで「フシガゝリ」で字を配らねばならぬ。『雪を、覆ふたる』で止つて『簑笠着たる老――人を』と運んで『乗せて我家へ、戻り船、ヱーヱーヱヱ、ヱヽヽヽヽ』となつて、『艪を押切て陸ァー―に、漕付け』と語らねばならぬ事になつて居る。夫から気を変へて、謡詞となり『急ぎ候程に、早船が着きて候』となり、又気が世話に変りて『ヤ、即ち是が我等が家、サア/\お上りなされませ』となつて、『女房共戻つたぞよ』からは、全く船頭の世話になるのである。『簑笠脱捨て上座に直り』と「中」で上品に語り、『一樹のかげ、
一河の流れ、ふしぎに亭主の世話となり、寒夜の一宿、過分の至り』までは、皆「地中」の音で最も大時代で、上品に語る事。『聞いて女房が、惘れ顔』から又世話となる。以下皆此式で、「変り」を心掛けて語るのである。此以下の高綱の「世話詞」が最も綱太夫風の骨の折れる所である。『夫が詞に、それはマァ/\、御難――ンギヤ』と云ふ時は、女房が横眼で、夫高綱と、ソーット、目を合せる人形の手があるとの事。夫から又世話に「カワル」のである。『佐々木が謀の恐ろしやと舌を巻いて物語り』と「フシ」に語つて、『聞くに女房が打しほれ、今のお咄聞くに付け、侍と云ふ者はちいさい子でも、軍して命を捨てると云ふ事は儚ないと云はうか、いぢらしいと云はうか、其親々の身に取つては、と云ふを打消し』まで、女房の「地色」が此段の六ヶ敷所にて、綾瀬太夫は、
「此「地色」が語れねば、 一人前の、太夫ではないと、師匠に云はれました。師匠は篝火の、臭がしない/\/\と云はれました。旦那、中ゝ篝火の臭が致しませんで困りました。」
此段に付いて大隅は、
「近九は、綱さんの物でオマスさかい、詞捌きと、第一お汁がお味くない事には、喰べられませぬ」
と云つて居たが、失張綾瀬太夫の咄の、臭がせぬ/\/\という咄と、同じ事であると思ふ。『しづ/\立て奥に入る』と「フシ」に語つて、『跡に女房がしく/\と、思ひ侘たる憂涙、夫も思案有顔に、手を拱ねいて差俯き、互ひに詞納戸より』の「間」をモウ持つて居られぬから、時代に「カワリ」たがる物である。夫が力の足らぬのである。是から夫婦で、奥の老人を欺しのわなに掛けやうと思つて居る所故、其語り方の加減に誰も困るのである。『ひよく/\出る、阿呆の盆太』からガラリ変るのである。此段の内に真面目な精神の者は、盆太一人と思はねばならぬ。故に盆太で泣かすやうに語らねばならぬと、云ひ伝へてあるのである。佐々木夫婦が、盆太との咄で、真身を出して泣くやら、ワメクやら、又御注進を真面目に聞いて色々の所作をするのは、皆奥の老人に、聞かす為めであると思つて居らねばならぬ。夫に、騒ぎ廻つて、泣いたり怒つたりするのは、比較的真面目でなければならぬのである。ソコデ佐々木の「地合」にも『骨は砕かれ身は刻まれ』と「大ノリ」に語つて人形に奥を見る息があつて、『肝のたばねに烙鉄を』と音をしめて、低く語る風があるのである。女房の方も『モウ云うて呉れるな、聞程苦しい此胸が』と低く語つて、止つて「チヽン」と引くのに、三味線弾の方にも、其心持の息があつて、『さけるやうなと伏沈む』と高く、奥に聞へるやうに、悲しく語るのである。夫から御注進となつて、谷村小藤次が来る。夫に高綱が『シー/\/\』と云ふ心持は、始終奥の老人に対してする、声の所作である事を忘れてはならぬ。『息つぎあえず、訴ふれば』と「フシ」に語るまで、鍛練に/\を重ねて、彼の綱太夫の「ノリ地」と「詞捌」を「霰地」と云ふは是の事であるとの事である。躄の段切の、筆助の「詞ノリ」も、阿漕の段切の、次郎蔵の「詞捌」も、此御注進も、只だ鍛練の精神が語るやうにならねば、淋しくて聞いて居られぬのである。夫から、『用意さしやんせ四郎殿』と云ふ文字を、故団平が『用意めされや我夫』と、直したと聞いたが、団平文学の力は無くとも芸の力にて、此夫婦の腹の中を会得して、改めたと云ふ事が分るのである。二度目の注進、四の宮六郎の詞の中『てうど請て、ほし玉へば』と云ふ所に、一寸佐々木と見合せる、人形の息があつて、佐々木の目交せにて、又一層声を高くして『忽ち顔色土の如く』と大声に語るのである。夫から『俄に表騒がしく』から気を変へて語るとの事。夫から老人が迎の軍勢に囲まれて帰つた後、篝火が『手に入敵をやみ/\と』以下は、最も真面目に語る事。夫は女房は、老人を真の時政と信じて居たからである。以下の佐々木の詞は、比較的低い声で語つて、夫がしまりて、強く聞ゆるやうにとの教へである。夫は佐々木も是所になると真面目で、女房に云ひ聞かせて居るのであるからである。夫から段切は最も陰気に語る中に「中ギン」の音を忘れぬやうに『抜け目なアきイ、イイ、イ…………』と語つて、聴衆を地の底に引き込むやうになして置いて、三味線弾が、力にある丈けの間をもつて、絃を「スッタラ」、又、太夫が力で持てる丈けの間を持つて『智謀の』と「トッ」て『程こ――、そヲヲ、ヲヲヲ……………………と』と切のである。