(四十九) 近江源氏(*近江源氏先陣館) 八ツ目切 盛網首実検の段

 此段は明和六年丑十二月(大正十五年を距る百五十八年前)再興座にて豊竹鐘太夫の役場でありしと開く。作者は近松半二、竹田平七、三好松洛、竹本三郎兵衛である。この鐘太夫と云ふ人は、前古無比の大音嬌喉であつて、時代語りの達者で、後世の今日から考へても、恐ろしい程の語り人である。忠臣講釈の七ツ目、喜内住家の段が、アノ通り「渋味」の難物である。又二十四孝の四段目狐火が「品格」と「節」と「足取」と「音遣い」と「派手模様」の取捌きが、アレ程困難な物である。其上又急転直下して、両面紙子仕立の大文字屋と云ふ真世話物を抓んで捨てるやうに語つたとも聞く。夫に又此盛綱首実検を語つたとは、何と云ふ恐ろしい太夫であらう。夫に其「詞の腹変り」と「音遣ひ」の「貫目」と「声量の張り緩め」とは、全く御咄にならぬ程であるのを皆一様に、後世に範を残す程に語り開いた人であるとすれば、此三ツ丈けの比較研究をして見ても、義太夫節と云ふものは、全く芸術中の至難な物である事が分るのである。庵主が不断云ふ、斯芸丈けは命掛けで修業せねば、其門に入る事は出来ぬとは此所の事である。先人曰く、
一、息の吐き道を知らず、何処ででも口を開けるのを燕太夫と申候。
二、人形の腹を会得せず、只だ三味にのみ合せて謳ふのを、素読太夫と申候。
三、其段毎の格合を弁へず、斯芸の修業なき聴衆にのみ媚びるやうと語るのを按摩太夫と申候。
と、当今の芸人を此三ケ条で試験したらば、先づ何者が及第するであらうか。
先づこの近八の段は、
一、『盛綱は惘然と』
と云ふ一句は何で盛綱は惘然として居るかと考へねば語られぬ。
二、『思案の扇からりと捨』
も何の為めに扇をからりと捨てたと云ふ腹が分らねば語られぬ。
三、『申さぬ先から心得たとある、御誓言が承はりたい』
と母に詰め寄る詞を、力強く声高に語れと古人が教へたるは、ドウ云ふ腹加減か知らねばならぬ。
四、『剣を合す血潮の滝、修羅の巷の攻太鼓』から『ナァコレ/\/\聞分けてたべ母人』
とまでは低い声を〆て語ると云ふ訳が分らねばならぬ。
五、『母は手を打ち』
庵主は之を咄に聞く。此母の詞が又言語道断六ヶ敷腹合である。長門太夫は「物語」を「トン/\ジャン」と〆させて、グット息を詰めて、暫くして『母は手を打ち』と云つた時は、三味線の団平の丑之助も、楽屋も聴衆も、一緒にビックリしたとの事である。ソコデ団平は毎日盛綱の物語りが真底まで母の腹に徹する様に「ジャン」と〆ねば長門太夫に睨まれるので、毎日苦労をして、壮若の団平トウ/\心臓を痛めたとの事である。
 サア斯様な主意で、始めから段切まで運んで行く修業と覚悟がなけらねば、此段を語る資格はないのであるから、先づ当今では素読の外此段を聴く事は出来ないのである。
 コンナ風に此段を仕舞まで書いて居たらば、際限がない。以下は此格で推して知るべしである。