(四十八) 紙子仕立両面鑑 揚巻 助六 大文字屋の段

 此外題は、明和五年子十二月二十一日(大正十五年を距る百五十九年前)豊竹座に上場せし物と聞く。作者は菅専助で、語り初めは鐘太夫で、前が駒太夫で、中が此太夫であるとの事。後年此太夫も語つたと聞く。此段は故摂津大掾が、先年大阪文楽座で語つたが、何でも三十余年振りで語るとか云つて居た。稽古は三代目吉兵衛に、江戸で仕て貰つたとの事。大分遣り方が拗て居たから庵主も段々咄しも仕て貰つたが、大要左の通りである。
「鐘さんは、日本一の大音の人で大達者で、四段目語りの名人で厶り升ので、其後も鐘太夫と云ふ名を継ぐ人は、大音でなければ相続出来ぬとさへ云ひ伝へた位で厶い升、何様二十四孝の四段目盛綱首実検、忠臣講釈喜内住家、夫から此大文字屋も、鐘太夫さんの語り下しと聞いては、外題を聞いた斗りでも惘れる斗りで厶い升、其後銭屋の此さんも此段を得意で語られたそふで厶りますが、私は先づ鐘さんでお咄致します。昔日の太夫さんは、声柄や持前の天稟で芸を仕やはつた物では厶いませぬ。全く修業で物事が組立られるので厶い升から、先輩や師匠に習得する場合は天稟も長所も何処へやら飛んで仕舞ひ升、何でも命掛けの修業で、行所まで行かねばならぬ事になり升から、芸の風がチャンと動かなく極つて仕舞升、夫が鐘さん斗りでは厶りませぬ、よくお考へなさいませ、大和掾さんでも、安達の三、袖萩祭文の段、平仮名の四段目揚屋の段、恋女房の十段目重の井子別の段等が、大和場で時代物斗りで、世話物と云つては一段も厶りませぬ、夫にポイと双蝶々の橋本の段の真世話場を語りやはつて、アノ通り品がよくて、後世まで其芸風が残るやうになつたとは、只々恐れ入るの外は厶りませぬ、後世と成りましては昔の人とさへ云へば、達人/\/\と老人などが申升ので、若い者共は、アンナ事を云つて威嚇されるのじや、などゝ思ひ升が、決してソーで厶りませぬ、其語りやはつた外題の名を聞いた斗りでもビツクリ致し升。況んや其運びから音遣ひまで、聞けば聞く程恐れ入るの外は厶りませぬ、私共も永年何を語りましても、外題の名が違ひ升斗りで、語り方は何でも蚊でも同じ事斗り申しまして、高いお給金を戴きまして妻子安穏に暮して来ましたのは、何とも先輩の方々へ対し相済まぬと思ひまして、昨今漸ふ二階に楯籠りまして、若い時稽古を仕て貰ひました、師匠の方々のお名を唱へまして、其御霊にお礼を申まして其前で語る積りで本読を初め升事に成ましたが、研究すれば致し升程一段は/\と、サラリツと綺麗に遣り方が違ひ升、夫が一段/\と違ひませぬ事には稽古も修業も入用では厶りませぬ。此大文字屋は先師吉兵衛さんが気を入れて東京で教へて呉れました物で厶い升から、覚へて居升丈けを貴下にお咄して置升」
と云つて呉れたのである。此を聞いた庵主は忽ちにして速成の、大文字屋の源太左衛門が出来上つたのである。「凡大文字屋一通りに於ては、日本に楯突く者なき源太左衛門」と威張込んだのである。其後庵主は五代目鶴沢仲助にて此段を一度語つたが、何でも常陸山の女形で、大分不味かつたとの評判である。夫から友人の福島春甫君が熱心に此段を稽古仕て居たから、庵主は講釈の百曼陀羅を並べて聞かせたので、春甫君は講釈斗りでは意味が取れぬから、僕の宅で一晩散財するから、之を一段語つてくれと云はれるので、源太左衛門大乗気になつて、六代目仲助で語つた処が、ドウしたか声が皆目出ず、理窟負けをして物にならず、トウトウ喉から血が出て来て、夫が病み付きで強烈な咽喉病となつて一年半の間金杉病院の外来患者となつたのである。流石の源太左衛門も此大丈字屋では、今尚ほ震へ上つて居る処である。其後此段とさへ云へば方々で聞く事を怠らなかつたのであるが、立派な太夫衆の語るのでも、一つも行く所へ行つて居らぬやうな心地がする。アレは大文字屋でも小文字屋でも何でもない、唯作者の書いた物を勝手に節を付けて読んで居るのである。と思つて居らねばならぬのであつた。ツイ此間或る女師匠の語るのを聞いたが、中々面自ふは語つて居たが、息の間が庵主の考へと皆違つて居た。此段の息と間は、全く外の世話物とは別であると思ふ。
 先づ『既に日も暮れ飯焚が』の「ハルフシ」は、決して「ユリ」があつたり、「ナガシ」があつてはならぬ。夫から『飯焚が』は「三をハナシタ」音である。総て此鐘場は「ハナシタ」音が大事である。夫から決して忘れてならぬ事は、地合でも詞でも、息の間が本である。夫で風も模様も足取も、トンと違つた物が出来上るのであると心得て居ねばならぬ。『十方失ふ気は暗闇』も「二をハナシタ」音である。是で「トン」と受けて、「二をハナシ」た音の辺から流れ込んで、『心にもなき』の次の『わんざんを』は「二の上」を押へた音であるとの事。又「二」をハナシた音で『云ふも栄三か十露盤の』と辿り『提灯のかげも』で気をかへ『心もかきくもる』は凡て「ハリマ」と云ふ節の内で、此れ程可愛らしい打沈んだ心持で語らねばならぬ所はないと思つて、其心持を離さぬ事。此心持が本となつて『お松と云へど色かわる』と運ぶと、満場水を打たやうになるのである。故大掾が、『ヲマーアァツウーー、トヲー一ヲヲ、イィー一エーードヲーー、イィィ、ロヲゝ、カアァ、ワアゝ、ルウゝウンヌ』と語つた時は、満場覚へず顔を見合せて仕舞つたのである。斯の如くなるを芸と云ふのである。今の芸人と云ふ者は、皆目無力であるから、見物が顔を見合せる時は、場代の高い時と、其一口の芸力の不味い時と、無茶苦茶の甚しい時である。夫は其筈である。其の一口の音遣ひに油の出るやうな修業をせず、只だ凝る事は女の事と、衣裳の事と、容態の事と、土産物の事と、頭を下げる事丈けで、全力を挙げて勉強する事は、給金を余計に取たい時に口を尖がらし、目を剥出し、高声を上げて喧嘩する時丈けであるから、段々世間に愛想を尽かされるのである。元々芸と云ふ者は、優美を本とする事柄であるから、少しは芸人自身にも楽み気がなくては、聞いても、見ても居られる物ではない。只だ飛脚が届物をするやうに、汗みどろになつて、無暗に駆けつけて賃銀を貰ふのとは、事柄が違ふのである。「タゝキ」で『顔は辛苦に面痩せて』是で十分の息の間があつて、『敷居も高き兄の内』と又十分の息の間があつて、三味線に乗せられて『供のでつちや、腰元も』と運ぶのである。
 其他書けば限りもないが、総ての人形の詞遣ひが大分心持が六ケ敷のである。夫は其人形の境遇と心持を片時も取逃さぬやうにして皆真心で親切に思つてスラ/\と運ぶのである。
 因に曰く。後年或人が此大文字屋は此太夫の語り下しであると警告してくれた。ソーかも知れぬ併し確とした調が付かぬのである。庵主は只だ大掾から聞いた事を書いて置く。又大掾も大隅も聞いた事を庵主が再調べして、大分調べ違いがあるやうでもあるけれど、両人とも矢張幼少よりの聞学が多いから、決して咎めてはならぬ。後年名庭絃阿弥が、総てを熱心に調べてくれて、且那アレは違い升、是も違い升。と云つた事も度々である。鍾太夫と云つても、幾人もある。此等は屹度識者の警告を待つのである。庵主は只だ聞いた事を無意識に其侭書いて居く事にする。