(四十七) 傾城阿波鳴戸 (*八ツ目切)巡礼歌の段

 此段は明和五年子の六月(大正十五年を距る百五十九年前)竹本座に上場し、竹本越太夫の役場にて、大評判を受けし物と聞く、作者は大近松の遺稿の筈である。此の越太夫は、大和屋利助と云ふ人で、利斎と号せしと。此人の芸術と美音は謂はずもがな、其間拍子の宜敷事は、前後に類なしとまで云はれた人の由。此の「順礼歌の段」は、殊に其の利斎間と唱へる風を代表するに足るものゝ由である。
 此段は故摂津大掾が、一生涯研究して苦んだ物である。其証拠は此段が文楽に懸りさへすれば、聴衆にも新聞にも、何時でも評判が悪るいのである。夫は此段の道筋と道理が分つて、屹度精神に捕はれて努力して居るから、素人受がしないのである。庵主が曾て大隅太夫にウツカリ云つた。
「鳴戸の様な物は、お前の声では子役が難儀じやから、兎ても語れまいのウ」
と云つたら、大隅の曰ふには、
「イヤ子役などは、商売人として語れるの語れぬのと云ふは問題では厶いませぬ、子役があつて語れねば、悪声の者は太夫を止めねばなりませぬ、アノ鳴戸と云ふ場は、団平師に稽古も仕て貰ひましたが、中々稽古の仕逐げが付かぬ物で厶い升。二見の師匠を御覧じませ、永年餅に搗いて苦しんで居らるゝでは厶いませぬか、モウ私の年になりましては、コンナ修業は出来ませぬ」
と、アノ傲慢な大隅さへ辟易して居る。夫は鳴戸が語れぬだの、知らぬだのと云ふ事ではない、十分知つても居れば、語る事も出来るのである。ケレ共只だ間と息と足取とが、附かず離れずに絃と組合つて、太夫と絃との両人が一致して、一の爆裂弾のやうになつて、聴衆との間に破裂するやうにならねば、語れたとは云へぬのである。夫で修業が困難であると云ふのである。故に結論はコウである。大掾は之を捕へて修業した丈けが、大隅より慥かに豪らくて、大隅は之に閉口をして、修業をせざりし丈が、慥かに大掾より劣つて居たのである。併し両方とも此に対する芸術其物が分つて居る丈けは、天下二人の義太夫傑であると云ふ事が分るのである。慥か明治丙午の年であつたと思ふ、庵主が余り鳴戸に付いて、八筌敷い(*矢釜敷い)講釈で威かされたから、少し忌ま/\敷い考へも起つたから、其咄を五代目鶴沢仲助にして、是を引連れて大阪に往き、両人にて大掾に就いて稽古をして貰ふ事となつた。大掾曰く、
「お稽古は致し升が、御辛抱が出来升か」
と云ふから、今更出来ぬとも云へぬから、
「屹度辛抱をする」
と答へたら、大掾自分から庵主の宿(大阪中の島の銀水楼)に出掛けて来て、毎晩八時頃から十一時までの稽古である。其稽古の面倒と云つたら、庵主も仲助も往生して仕舞つたのである。大掾の曰ふには、
「芸人の稽古ならば、相当商売の出来る限度に、又其人其時の力に応じて小言をも申し升が、旦那衆のお稽古は、お望とさへあれば、自分の覚えて居る事の上に、別に取調べてまでも稽古を致し升のが、斯道の本筋で厶い升」
と、羽織を刎除け、頭の髪の中から汗を流して稽古をして呉れた。第一初めの、お弓の読む手紙の読方が馬鹿/\敷くてモウ云はれぬ程、幾度も繰り返して語つて見ても、大掾は膝に手を置いた侭沈黙して居る丈けである。暫くして曰ふには、
「旦那方は学問もあり、世の中の事も私共より幾十倍賢こくて居らつしやり升が、浄璃瑠のお下手な程、世の中の事がお分りにならなかつたら、飯が食へぬ所でなく、此世の中に活きて居らつしやる事が六ケ敷いと思ひ升。元々此鳴戸の筋道と語り方は、此仲助もお稽古を致して居りませうが、私が芝居で語りましたのも、幾遍となくお聞にもなつて居り升から、語るのに声をお出しになるのを、ソウ骨を折つて、幾度も同じ事斗りを繰り返へされぬでも宜いでは厶りませぬか、此お弓の読む文は、ドンナ心持で読んで居るか、と云ふ事をお考へになつて居り升か、国次の刀詮議の為めに、世間の噂や、人伝の詮議では埒が明かぬから、直接に人の内や、質屋の蔵の中にまでも、勝手に忍び込んで、詮議を仕様と云ふのが此夫婦の盗賊、衒になつた動機で厶い升、夫に一合取つても侍の家に生れた武士の血液丈は、全身に漂つて居る我々であるからと云ふ武士気質は、一時も忘れぬ夫婦で厶い升。所へ此内通の手紙に因つて見れば、其悪事が露顕して、夫を初め自分の身の上にも、罪科が刻々に降りかゝつて居ると云ふ、此手紙の文言を読みつゝあると云ふ事がお分りに成つて、貴下は声を出して居らつしやい升か、私は最前から承つて居り升が、ドウも貴下も仲助も、此鳴戸の段はドンな事が書いてあるかと云ふ事を、御存じもなく、今迄遂に見た事も聞いた事もない小説を、初めて探り読みに読んで居らつしやるやうに聞えまして、ドウしても鳴戸のお弓の声が致しませぬやうで厶い升」
と云はれた時は、如何に高慢な庵主も、仲助も、田舎者が巾着切に会つたか、馬鹿が鼻の先を人に弾かれたやうな顔になつて、ガツカリとして声を出すの勇気もなくなつたのである。其晩は撃剣の仕合にでも負けたか、相模(**相撲)の稽古でも仕た後のやうに、ガツカリして十二時過に寝込んで仕舞つた処が、翌朝になつて、錠の下りた袋柵(**棚)の中に入れて置いた、旅費千円入のカバンを泥棒に取られて仕舞つたやうな馬鹿事が出来た。其時は大阪で船待をして、台湾に往く積りであつたから、故児玉大将の令弟児玉文大郎(**文太郎)氏も同行して居たので、仲助と児玉君は、非常に捜索をして呉れたが、カバン丈けは朝日新聞社の横丁に捨てゝあつたと云つて、大阪の警察署から届けて呉れた。其後大掾は
「大変な高価な鳴戸のお稽古でございましたナア」
と彼が死ぬ迄の笑ひ咄しになつたのである。
 先づ順礼歌の前の分は、気を替へて、遠き音と近き音とが、風に連れるやうに謳ひ、二度目の歌は、尤も近き音で謳ふのである。『心を鎮め、よそ/\敷』は「綱太夫ガヽり」である。お弓が我子ならんと思ひ、又思つて後の息遣ひから、段々責込んで行く息遣ひと、間と足取に至つては、 一ツづつ腹合計りの修業である。又順礼お鶴のドコまでも無心なのと、四国訛とは又一ツ/\の修業である。又『ま一度顔を』と「チン」とある後、「ハツ」と掛声をするのが一番悪るい事である。『引寄せて』とある文句に対し、「ハツ」との掛声なしで、「チン」で息を引ひて大きく『引寄せて』を語らねば、後の仕事も間も、小さくなつて仕舞ふのである。別れの順礼歌は涙斗りで謳ふのである。お弓の追駈けから後も執拗く六ケ敷いが、夫も主に息と間と、足取許りで芸人と聴衆とが一致した一塊りとなつて仕舞やうになるのである。