此外題は明和四年亥十二月(大正十五年を距る百六十年前)大阪市の側豊竹座に上場して、豊竹此太夫(銭屋佐吉)が語つた筈である。作者は菅(くわん(*すが))専介と思ふ。元来が大阪町風の気質を本として筆を下した物故、大分意気込が当時の時好に適し、先づ上作の方である。又節付けも先づ非難を打つ処はないやうである。随つて之を語る太夫も、余程其情合を呑み込まねば語れぬ。庵主は之を竹本摂津大掾に聞き、大隅太夫にも聞いては見たが、大掾の心立の芸風が大分立勝つて居たと思つて居る。丁度庵主が大隅太夫より講釈を聞いた後、明治三十三年夏、大阪文楽座で聞き、大分其語り方と、腹構への面白き事に注意し、大隅の咄と違ふ所が沢山あつたので、頻りに研究して居たが、間もなく庵主が京都に滞在せねばならぬ用向きが出来たので、京都の丸山に或人の別荘を借り込んで居たら、大掾が京都で興行する事になつたので、毎晩聞に行き、帰りに大掾を庵主の宿所に連れて来て泊らせ、色々と話を聞いたのである。夫が丁度此年の正月頃、大隅が大阪の明楽座で語つたのを、抜ける程聞いた後であつたから、此両人の質店に対する力量と、学力との相違が判つたのである。其後故津太夫の語るのを文楽で度々聞いたが、此人は質店を提げて、裸で戦場に出て居た。大隅は小具足を着て、算盤とを持つて居つた。大掾は暖簾の下つた、大阪の町の油屋の家庭を語つて居た。大隅の時は何でも前を生島太夫が語り、道行は今の錣太夫が語つて居たやうに思ふが、大隅の質店ほ芸として面白く、質店としては、大阪町風の出来事にはなつて居なかつたと思ふ。此時は彼の源吉が、仙左衛門に名前替でもした時であつたかして、幟や旗などが、大分沢山にヒラ/\して居たやうであるが、三味線の方も堅くなつて弾いては居たが、質店にはなつて居なかつたやうに思ふ。(但し、庵主微力の耳て)『此間大阪町々で御評判の高い色事、此あたりで大きな声では申されぬ事』云々の詞遣ひが皆、太夫共の困難とする所であるが、是は大抵紋下の太夫が自身に云ふ気であるから物にならぬ。太夫を忘れて何の遠慮も構ひもない、大道商人の摺物売の声でなければならぬ。夫になる腹構へがモウ困難である。夫で『物騒がしき大三十日』と語つて、次に『質店の帳箱に廬生が枕肝胆を砕く、久松思ひ寝の夢驚かす初夜の鐘、ふつと目覚し』と「カワッ」て、此段の本問題に入られるのである。夫から久松の独言の「カワリ」がチャンと語れねば、『ノウ久松々々』とお染の詞の「カワリ」になれぬのである。此奥深い意味、即ち両人に取つては世界中第一の大問題であると云ふ事が、腹に解つて居らぬから、只だグチャ/\と読むので、今は夫より外聞く事は出来ぬのである。是から先は「カワリ」斗りで、三味線も太夫も修業の修羅場である。夫から『涙ながらに稚子を』と云ふ「文弥」の出は、段々名人の弾くのも沢山聞いたが、今の友次郎が若い時に、津太夫を弾いた時程、甘味く弾けたのを聞いた事がない。是は芸捌きの困難な事が解つて来て『共にしぼるゝ目に涙』の「フシ」からポイと「カワリ」で、無調法な撥で弾いたから、「涙ながら」になつたのである。此人生涯の上出来として、今日まで覚へて居る。夫から先年文楽で、故大掾の追善興行とかと云つて、文楽の総芸人が、色々の吹寄義太夫を語るのを聞いた事がある。此時故名庭絃阿弥が永い間休業して居て、ポイと舞台に上り、其吹寄せの中で、此「文弥」を弾いたら、故越路太夫が『涙ながら』と語り出した。庵主は天地の雲霧一時に晴れて、ビックリする程此「文弥」が面白く気に入つたのである。此絃阿弥は広作、広助時代から、色々と批評のある人であつたが、此時庵主は、全く古今独歩の「質店の文弥」を弾いたと驚歎したのである。庵主は吉兵衛も、松葉屋も、団平も聞いたが、此時程、感心したのは一つもなかつた。此段の「カワリ」斗りは、只だ手の弾ける丈けの人では甘味く行かぬ物と覚悟したのである。夫から『お染は顔を振り上げて』から色気専門で語つては、殻潰れである。是が此太夫苦心の売出の芸と聞いて居る。大掾の腹構への解つて居る人は、必ず庵主に同意をするであらうが、此文句は此娘一生中に又とない一大事を、自分の心の融け合つた情夫に打明ける文句である。其中に日本無双の神ながらの女の貞操を説いた所が、作者の力量である。其上にて両人死を決するの楔であるから、ドウしても大掾主義でなければ語り解けぬのである。夫から芸道としては、久作の詞にも蔵前になつても、色々と聞いて居る口伝もあるが、此辺まで腹が出来さへすれば、熱心に読んで居れば自然に解る事と思ふ。兎も角「定間」斗り弾いて「定間」斗りで語つて居ては、何事も味の解る気遣ひはないのである。