(四十四) 太平記忠臣講釈  七段目切 喜内住家の段

 此段は忠臣蔵の作、即ち寛延元年より十九年後の明和三年戌十月(大正十五年を距る百六十一年前)の作で、竹田文吉座にて上場せし物であるが、何様作者が義士物に脂の乗つた時の作故、矢張名作であると思ふ。作者の近松半二、三好松洛、竹田文吉、竹田小出雲、筑田半七等顔揃ひの上に、斯界の張子房と云はれた竹本三郎兵衛が加はつて居るのである。役場は豊竹鐘太夫であるとの事。此人は近江源氏の八ツ目盛綱首実検を語り、二十四孝の四段目狐火を語つた人にて、夫が又此渋い此段を語つたと聞いては驚かざるを得ぬのである。
 此場は素浄瑠璃としては、前の『昔は馬に鞍馬口。今は妻子の飼料も、かつ/\なりし素浪人』から語らねば一寸工合の悪い事があるが、夫は先づ暫く不問にして措くとして『弓矢は家に伝へても今は仕へん君知らず、羽なき矢間重太郎』から語り出すに、其腹構への六ケ敷事は、誠に説明に苦しむのである。庵主は四十幾年間沢山此段を聞いたが、是は好いなアと思つたのは一度も聞いた事がない。弥太夫は淋し気は有つたが品がない。津太夫は何処やら品は有つたが強味がない。咄しに聞けば盲人の住太夫が好かつたとの評判は聞いた。其一例として『家来が案内』間を明けて、淋しく「ツーン」と弾く、又間を明けて『おりゑ誰やら見えたぞや』と語つたら、見物がワーッと誉たとの事。庵主之を聞いて、其処は宜かつたに違ひないが、ソコでワーツと云はせたのが悪るい、ソンナ事で此段が語れる物ではない。庵主曾て五代目鶴沢仲助が弾いて居た、或る達者な太夫が、横浜で看板を上げて尤も良き講釈の七ツ目を聞かせるからと云ふので、態々横浜に出掛け、富貴楼の婆やら何やら色々の処を駆り集めて楽みにして聞に行つたら、イヤ早『弓矢は家に』の語り出しから、大名が多勢の供廻りでも連れて、お館入をするやうな枕で、ドコに淋し気があるか分らぬ態で、喜内と重太郎の取遣りを聞いて、万止を得ず退散したので、仲助と太夫は打連れて誤りに来た。
「イヤお前共が悪るいのではない、教へた師匠が悪いのである、又三味線は良く弾けて居ても、此場が弾けて居らぬ丈けである、併し両人共可成知らぬ経は読まぬがよい、衆生は決して成仏せぬから」
と二度と語らぬやうに封じ込めたのであつた。最近にも有楽座で誰れかの講七を聞いたが、此等はマダ調べの穴が違つて居た。永年の間何様腑に落ちる講七をマダ一度も聞いた事がない。明治庚戌の年の春であつた、大阪で大隅に一段講七を聞かせよと云つたので、銀水楼で聞かせて貰つた。聞了つて大隅が、
「旦那、ドウです」
と云ふから、
「今までに聞いた中の講七では、 一番面白く聞いた、御苦労であつた」
と云つたら、大隅は変な顔をして、
「私は講七と云ふ物はコンナ物と思つて、旦那に聞かせたのですが、気に入ませぬか」
と少し突掛つて来たから、一場の衝突が始まつた。
「義太夫節は面白く聞いたが、講七には成つて居ないと思ふ、併し何程名人でも夫をお前達に望むのは無理じやから、只だ誉めて礼を云つたのじや。決して感心はして居らぬ」
と云ふと、大隅は躍起となつて、
「私共は一生の商売だすサカイ悪い処は云うておくんなはれ、一生勉強し升サカイ」
「夫ならば愚見丈けは云ふが、『納戸へ連れて行く』といふ送りを語つて居る中に『昔は馬に鞍馬口今は妻子の飼料も、かつ/\なりし素浪人』と一遍腹の中で語つて見て、其文章を腹に〆めて、『弓矢は家に』と語り出してはドウじや、夫でないと重太郎が帰る家がドンナ家か分らぬ、其気分の漂ふのが講七で、大隅太夫の語る講七と思ふ。又『喜内もニコ/\打ほゝ笑み』と云ふなら、心の底から嬉しい「色」を語つて貰いたい、夫でこそ後が語れるのである。即ち其後に『浪人の尾羽を枯らし、旅やつれも嘸あらんと思ひの外、顔色もすこやか』と心好げに語つて、止つて重太郎の身の廻りを見て、ハツト疑ひを起し、息で『衣服の美々しさ』と「ネバツテ」、『かわらぬ体に』と押えて、『マヽ、先づは安堵』と軽く「カワル」べきである。其処に重太郎は無心平気で、『拙者も方々も狼狽へ此儘に朽果人かと存じたに宜敷主取を仕り御覧の如く身廻りも皆主人より拝領……………』と聞いて、最前より憤りを抑へかねて、『喜内躄りし、膝立直ほし、ヤイ重太郎』と喜内が云へるのである。夫が本当の講七で、大隅の語るべき講七と思ふ。併し此は侍に成つた事のある者でなければ、此喜内の侍気質は分らぬから、お前に望むは無理と云ふのじや。前が此丈け仕込が付けばこそ、又其奥が語れるのである。『泣声一度に父喜内』は第一三味線の手が、喜内が躄足で孫を刺殺す重太郎の意立の喜ばしさを感じて、覚えず刀を杖に躍り出る「足取」であるから夫を弾かねばならぬ。語る者は申に及ばす、是まで仕込んでこそ其気が満ちて『出かした重太郎』の山が語れるのである。講七の山は『出かした重太郎』の一言である。此山一ツの為めに前の喜内重太郎、おりゑ、母親と道具立をして責めたのである。ソンナ組立が此段の全体に充満してこそ講七だと思ふ。間違つて居たら教へて貰いたい」
と云つたら、大隅は四五分間も沈黙低首して聞いて居たが、アレ程の芸力のある太夫故、グーツと腹の器械に掛けて考へて、庵主がビツクリする程の声を出して、ポント膝を打つて、
「旦那違いない………アー違い厶りませぬ、ありがとう厶い升、今度私が一生懸命に凝つて、アンタに,面白い講七を聞かせ升、有がとう/\……」
と云つた。夫から其後庵主が大掾に面会した時、(大隅と大掾との間柄は相当疎遠であつたにも拘はらず、大隅は大掾に面会した時、右の顛末を残らず咄したとの事)大掾曰く、
「大隅が申ますには、私は新町(*清水町)の師匠に別れてから、始めて良事を一ツ聞ました、アノ方の侍咄は心魂に徹しましたと申て居ました、私も講七に付ましては面白い咄が厶り升、亡くなられた三代目吉兵衛師に私が講七の事を聞ましたら、お前等が講七などを凝る了簡になつたら、俺は三味線は弾いて遣らないよ、兎ても一生語られはせぬから、と申されました、夫から又団平さんに弾いて貰つてる時に、講七の事を咄しましたら、団平さんは、アンタが是から講七などを凝る了簡なら、私乞食になつてもアンタの三味線を弾かして貰ひ升よ、と云はれました、コレ丈け両師の腹は違つて居ました、私が師匠春太夫の前で、妹背山の四ノ切、竹雀の段を聞いて貰ひます時、
『迷ひはぐれし片鶉』と申升と、「イカン/\/\/\」と云はれましたので、ジーツと師匠の顔を見て居ましたら、馬鹿俺の顔を見て居やうより帰つて、姫戻りの本をよく見て、端場が本当に語れるやうに成つて来い、と云はれましたので、ハツト気が付きました。幾度も勤めました役の、姫戻りを新左右衛門(*新左衛門)さんに稽古仕直ほして貰ひまして、ヤツト師匠に此段を通過させて貰つた事が厶り升」
と云つて居た。失張此講七なども端場で屹度此段の気分を拵へて語らねばならぬものと思ふ。