此段は明和三年戌正月(大正十五年を距る百六十一年前竹本座にて上場し、島太夫、即ち二代目若太夫の語り場で、是が此人一代の大役、大場であつた。実に斯芸六蹈(**韜?)の陣立を羅列して余蘊なく、努力し尽したりと云つても差支へなき物である。若し此場を満足に語り得て、一人前の太夫たるの資格を定むる試験問題としたならば、現今の太夫にては、其資格を有するもの寥々たるものならんと思ふ。俗に云ふ、筍の段の三難とは「解らぬ」と、「六ケ敷い」と、「前に受けぬ」と三ツである。後世今一つ夫に大難を加へたのが団平である。是は前の三難を打消す程の芸力を養成して、「軽々と提げて苦なしに語り捨てよ」と云ふの一事である。庵主の聴いた処にては,故組太夫と、大隅太夫丈けは、慥かに最後の一難を実行したと思ふ。其他は全部丸潰れである。先づ一人も物になつて居らぬと思ふ。唯だ読んで紙を繰り開く丈けで、命が危険なと云ふ太夫斗りである。
初め『木曾山木立』より、『信玄公の御入り』までは、端場の心持で力の入れ、緩めを誤らず語り。又勘助がゴロツキにならぬやう、腕白一方で、又婆さんも世話で品よく、サラ/\と語ること。勿論節が西風であるから、夫に克く気を付けて語らねばならぬ。夫から『匂ふ』の「ハルフシ」からは東風を加味し「ギン」に寄せて語り、勘助の名乗から、真西風で「大ノリ」「節足」「音遣」等を鍛練して、腹の皮の破れる程、投げ出して語らねばならぬ。又勘助の名乗までは、世話を忘れずに,婆さんも『両人待て』までは、世話の気で語り。夫から後に真時代に成るのである。元来此若太夫と云ふ人は、東の元祖、越前少掾の孫であつて、名人中の名人である。越前少掾の高弟、豊竹筑前掾とは甲乙なしに、斯芸に努力した人で、筑前掾が一の谷の三段目を語る時は、此島太夫は須磨の浦組打の段を語つて、筑前掾の位地を危からしめた。又此人が菅原伝授寺子屋の段を語る時には、筑前掾は其三段目の、佐太村の段を語つて、其塁を摩せんとした等、実に世は泰平なりと雖も、芸道は白刃の修羅場であつた。現今の如く、節を付けて五行本を朗読して居るやうな世の中に、本当の修業鍛練をして、此三段目を語つて堪納(*堪能)させる丈けの太夫を望むのは、望む方が無理ではあるが、英雄豪傑がなくては国が亡ぶるやうに、ソンナ太夫が出なければ此若太夫節は屹度亡びるに相違ないと思ふ。