(四十一)蘭奢待新田系図 四段目切 盲恋の段

 此外題は明和二年酉の二月九日(大正十五年を距る百六十二年前)竹田因幡掾座に上場した筈である。作者は近松半二、竹田平七、竹本三郎兵衛と聞く。役場は或る本には竹本錦太夫とあるが、又一本には竹本岡太夫ともある。後年摂津大掾に聞いたら、
「サア三段目が政はんで、四段目は岡太夫さんと聞いた事が厶りますが、其中よく調べて置きませう」
と云つて居た。其後竹本(*豊竹)古靭太夫に借りた、「高名集」と云ふ本を見たら「蘭奢待四ノ切は、竹本岡太夫」と書いてあつた、先づ岡太夫ならんと思はるゝのである。此四段目を『跡には一人母親が』から語るとすれば、「ハルフシ」から「スヱテ」等、「詞捌」まで、総てハツキリ煮込むやうに語つて運ぶを大事とする事。夫から此等の外題が、語り下ろし以後、中々流行せぬのは、文章の運び、句調とも句伸び、字余り等多くて演奏者にも、聴衆にも、呑込む事が中々困難であるから、此結構な物が世の廃り物となつて居るのである。故に大掾と広助は相談の上、庵主に文章を縮め、句調を出来る丈よくして呉れと頼んで夫に朱章を入れたのである。夫を鶴沢清六に其朱章を繰せて、庵主が聞き夫れから又六代目仲助に練習させて、庵主が語つて見る事になつたのである。故に庵主の所持する床本は、三段目、四段目とも、丸本とは多少相違の個所があると思ふ。併し節譜は、大体に於て丸本の方の黒朱と、大なる違はない筈と思つて居る。今故広助(名庭絃阿弥)の方に手控への朱でもあつたならば、直ぐに解るが、多分六代目仲助は大震後、其朱章は写し直して、復興した筈である。
 村踊りの拍子は最も陽気に「ノリ」て語る事。お此の詞遣ひは大分に注意し、目明きにならぬやう又心の底に絶望の気を持つて語る事。『アイの返事もないじやくり』の「地ハル」から、『今更ら申も』の「地色」「シヤン」から、『恥かしながら』の「フシ」となり、「ジヤン」と「ノリ」て、「シメ」て『忘れがたなき憂年の』と「大和地」になる事。母がお此を大塔の宮の、お身代りに斬らんとする時『ヤレ待て暫しと大塔の宮』と「ハリマカヽリ」になり『しづ/\二階をおり立玉ひ』と「フシハル」になり、夫より「地色中」にて『始終くはしくあれにて聞く』となり、宮の詞は、尤も品よく語り、夫から『安楽国へ引導せん』と「ギン」の尤も落付いた音で語る。夫からお此の目が開いてから、がらりとカワリ『三千年に一度咲く、花より稀な此逢瀬「色」「詞」お前の事を明暮にこがれ/\て「地ハル」現なく』から「サハリ」となるので、最も生き/\と語る事。夫から『宮様のお傍は離れぬ/\と、花紫の御衣に取付、くどき泣き』と「地ハル」から「スヱカヽリ」から「三ツ入」となるのである。夫からお此が嫉妬で狂ひ廻るので、母親が縁柱にくゝり付けた後、お此の独り舞台となり、宮様と織部の姫の影法師が、障子に映るので、お此の嫉妬は絶頂となつて、終に口から火を吐く事になるので、前代無比の大嫉妬となるのである。故に『次第に更る夜嵐の』と「地ウラギン」「フシハル」を最も煮へ込むやうう(**やう)に物淋しく語る事。夫から『障子にかげの』の「本フシ」も「ギンカヽリ」にて「上クル」気味にて、「メリヤス」に渡さねばならぬ。『嫉妬の念ぞおそろしき』と「フシ」になりて、是から段々大森彦七の出になるのである。『猶も』と「ヲクリ」となり「テントン」『小影に窺ひ居る』と「錦地フシ」に収める事。夫から「地コハリ」にて『早丑満の物すごく、柳が枝に風ためて、サツト吹来る一村雨』と「道具屋」になつて、『大森彦七盛長は』と「ノリ」て出るのである。夫から彦七が、鬼女の面を付けたお此の姿をした宮様を背負つて『立足もなくたぢ/\/\、たぢろぐ曲者、疼(ひるま)ぬ彦七』と「林清カヽリ」の「ヲクリ」となつて「詞ノリ」で後を運ぶのである。夫から黒川軍太と、がま六と取手の仕合が中々烈しくて、其「ノリ」がすむと、大森と宮様と、村上彦四郎と、楠の後家との遣り取りとなり、夫から楠正行等の小供の軍勢のお迎となりて、段切りとなるのである。一体此段は総てザワ/\した組立てゞある物を、ザワ/\させずに踏〆め/\シツトリと語り締める工夫をせねばならぬ物じやと聞いて居るのである。委敷事は三段目を書く時、書いておいたから参照してよく見る事。