此外題は明和三年酉二月(大正十五年を距る百六十二年前)竹本座(*竹田因幡掾座)に上場した筈である。作者は近松半二、竹本三郎兵衛、竹田平七ならんと思ふ。確か此時に吉田文三郎が、浮れ座頭を遣つたと聞く。役場は竹本政太夫と云ふ事であるが、元来此作の組立は、彼の「天勾践を空ふすることなし時に范蠡なきにあらず」と桜樹を削つて書いた、児島備後三郎高徳が、小山田幸内と云ふ浪人となつて、摂州兵庫の辺り、脇の浜に隠遁して、後醍醐天皇の皇子、皺(**雛)の宮様を、窃かにおかくまい申して居る所に、幸内が釣猟に出た道にて、斗らずも彷徨てござる、勾当の内待を伴ひ来り、雛の宮様と共に、かくまつて居る其所に、後妻の産んだ子の、助一と云ふのがあつて、之が憶病者で、百姓業の外、何程教育をしても、武士になれず、幸内は残念で溜らぬので、嫁もあるのに、勘当をして、其貞節な嫁丈けを残し、之を相手に、老夫婦が暮して居る。夫れに或日幸内が、義貞最後の戦場たるべき、求め塚の附近で、此助一が、兵士共に団子を売つて居るのに邂逅し、憤概の余り、手強き折檻をなし、其辺に、義貞が謀計の為めに捨てゝ置いた、沢山の鎧兜の中に、彼義貞が、蘭奢待の名香を焚き込んだ、龍頭の兜のあるを見付出し、之を助一に与へて、今攻めて来るアノ足利方の大軍の中にて、清和天皇の後胤、新田左中将義貞なりと名乗つて、是所で討死をせよ、左すれば、勘当を赦した上に、大なる忠孝の子として愛し、且つ喜ぶべしと云ひ聞かせたので、助一は止むを得ず、之を聞分けて、屹度討死すべく、誓ひを立てゝ引受けて、其鎧を持つて、父子今生の別れをしたのである。幸内は、ヤツト助一の武士らしき決意を知つて、今更に喜びと悲しみとを混じて、帰路、旦那寺に行つて助一の戒名を書いた、位牌を貰つて帰宅し、竊かに仏壇に入れ、念仏をなして、心に泣いて読書を始めて居る処に、一方貞節な、嫁のおそねは、外出の砥、身萎らしき、夫助一に邂逅し、何んでも、かんでも、父に勘当を赦して貰つてくれ、そして夫婦で百姓をして、両親に孝行を尽そふと約束をなし、助一は夫から叔母の所に行つて待つて、晩景におそねの返事を聞に行くべしと相談をして別れたのである。夫から「端場の中に」なると、幸内の後妻は、嫁のおそねと共に、料理拵へをして助一の誕生日の祝をなし、蔭膳でも据へて、心斗りの祝日を過すべく、コソ/\と働いて居る、そこにおそねは少しの手隙を考へ、助一の事が気になるから、氏神の詞(**祠)に詣で、勘当赦免の願を祈るべく、母の許しを受けて、出掛けて行く。即ち『願ひを深く神かけし、つま引繕ひ出て行く』と云ふ「オクリ」になつて、『隠居の間には、咳(しは)ぶき声』となる。之からが三段目の切になるのである。
一体此蘭奢待の如き史劇は、近松半二等の作としては、上々出来の部類で外の作物は、皆アセリ気味があつて、ガサ/\して纏りが中々付かぬのである。然るに此蘭奢待の如きは、終始一貫、比較的、好く出来て居る。況んや一代の名人、竹本政太夫と云ふ人の芸力に掛けて、語り出した物故、義太夫節として、元祖の死後、斯る物は滅多にないから、如何斗りも流行せねばならぬと思はるゝが、サア其処が六ケ敷所にて、中々此段を語る修業が困難である。所謂政太夫風の全段に、漂つた遣り方にて、語り出してから「色」と「中」と「地色」と「音遣ひ」と「息と間」斗りの運びであつて、修業をせずして「力」と「読馴(よみなれ)」斗りで運んだら、馬鹿々々敷て、見ても聞いても居られぬ物である。摂津大掾は此四段目の盲恋の段の「岡太夫場」を、是非語りますと云つて居た。之を聞いた大隅は、
「二見の師匠が、盲恋を語りやはりますなら、私は三段目の幸内を、ウント凝つて、是非語らせて貰ひます」
と云つて居たが、トウ/\両人とも、語らずに死んで仕舞つた。若し此両人が、アノ力量で、一度語つて置いてくれたら後世の為め、大変な好い事であつたらうと思つて居た。是等は全く芸人を勉強させぬ、現代の興行師の罪であつて、庵主は決して摂津、大隅両人の怠慢を責めぬのである。斯る行掛りがあればこそ、庵主は七八年間、此蘭奢待の研究に浮身を窶し、本を拵へては、本書の安井桂に書かせ、夫を又大掾に検閲させ、夫を又絃阿弥に朱章を調べさせ、ヤツト出来上つたのを、六代目仲助に朱章を繰らせて、庵主第一に「盲恋」の方を語つて見たのは、大正十年の春であつたと思ふ。丁度其時、友人の福島春甫氏も聞いて居たが、庵主は何だかヱラクて、頭がフラ/\になつて、一寸感じが無いやうになつた。仲助は二日間、稽古を休んで寝込んだ。其次に此三段目の幸内を語つたのは、其年の冬であつたと思ふ。是は築地セーロカ病院の副院長、久保氏の家であつたと思ふ。素より両人の仕事で、碌な事の出来やう筈もないが、只だ此段の「変り」が六ケ敷ので、腰砕けがして、両人とも纏つた事にならなかつた。併しコンナ物こそ、本当に力を入れて修業すべき一大芸格であると思はしめたのである。是はドウしても「腹」も「力」も「芸術」も、夫相当に修業して来た、芸人に本当に修業をさせて、芝居で三十日間、語らせて貰はねば、義太夫節の面白味は満場の舞台に漂ひ出ぬのである。そふなれば、如何に素人の天狗共でも、感心せずには居られぬと思ふ。是は芸人を何程鞭つても、出来る事ではない、仕打の方の興行師が、其気になつて芝居を遣る腰を据へて、一鞭当てねば出来ぬ事である。今は興行師が「声」を買ひ、「節」を買ひ、「人気」を買つて、モウとう/\没落しつゝある所である。我国最後の至芸とも云ふべき義太夫節は、ソンナ浅薄な物ではない。此三段目四段目は「声」でもなく「節」でもなく「人気」でもなく、全く興行師の腹と、芸人の力と、修業とにのみ待つ物故、素人の天狗共が、善悪の批評をしたり、真似事をしたりする事は決して出来ぬ物である。斯る物が、再び世に出て来て、見る/\他の芸界を圧倒して、斯芸のみ、花が飛ぶやうに繁栄して来るので、歴代斯芸の盛衰は繰り返されて居るのである。彼の「大大根」と評判を取つた、故市川団十郎が、神明座や猿若町で、興行師に大損斗りをさせて居た頃、興行師の巨人たる守田勘弥と云ふ男が、故後藤伯邸に於て、芝居の恢復策を論ずる時、後藤伯と庵主は「ソンナ人気取斗りの工夫で、芝居の恢復が出来るものか、アノ団十郎を種に、彼の歌舞伎十八番の恢復を計るのじや「腹」があつて、「物」を知つて、芸が「酒や」や「恋十」にはまらぬアノ団十郎が、歌舞伎十八番を以つて復興の芝居をする時機が来たのである」と咄して、其儘に両人とも忘れて居たら其後噂を聞けば、勘弥は妻に向つて、斯く曰つたとのこと。
「俺は歌舞伎十八番の恢復をするのじや、お前も其決心をしてくれ、先づお前丈けの決心は「米」は一切借りて喰へ、「家」は一切無屋賃で住め、俺は一文なしで、芝居を復興するのじや」
と云つたとの事。(其妻は、今の勘弥を産んだ、芸者のおていである)。是は昔から、徳川様の御用達であつた、萬屋萬兵衛と云ふ人の娘で大江戸では、立派な家庭に育つた人で、一時は後に、内閣総理大臣となつた桂太郎氏が、親達に相談をして、妻女にせんとまで決心した程の、容貌も心も立派な持主の人であつた。彼の伊藤公のお腹として、今或高位の華族の奥様を産んだ婦人が、即ち当時の勘弥の女房であつたのである。此おていと云ふ人は、死ぬまで、右等の関係から、庵主の家などにも、出入をして居たが、意思の強い、心立の良い人であつた。此人の咄に、
「私は、新富座が世間に知らるゝ事になるまで、十八度借屋の店立を喰ひました、お米屋は、京橋(**、)日本橋、芝まで借尽しました、夫が良人の、始めからの決心、覚悟でございました」
と咄して居た。斯る決心の興行師があつたればこそ、彼の団十郎も菊五郎も、出来たのである。大阪でも彦六座の出来たのは、庵主の家に出入をして居た柳適太夫(何でも寺井某)と云ふ人が,骨を折つたればこそ、団平も、大隅太夫も、組太夫も、広助も、松太郎も出来たのである。今日若し、斯芸の存在を謝するならば、先づ守田や、寺井のやうな興行師を、第一に忘れてはならぬのである(**。)其お蔭でこそ芸人の方の勉強が出来る事になるのである。
扨て此切の語り方は、先づ『隠居の間には、咳き声』と語るには、先づ絃の方に「トン/\/\/\ジャン」と〆めさせるのが、如何にも田舎の物淋しき、静かな気分の出るやうに弾かせるのである。夫から『咳き声』を「二の中」に響いて、収めるのである。是でモウ六ケ敷事は、何とも蚊とも云へぬ「間」があつて、『幸内殿、目が明たか』と、媼が次の間から物を云ふ、此「間」が何時も政太夫風の魂であり骨であると云ひ得るのである。又『老眼に書物、くり広ろげ』と「二の中」から「二」に落ちて仕舞ふのである。此間に幸内の目に、一杯の涙が漂つて居らねばならぬ。『アヽヽヽ、年寄つたれば根がない、平家物語りを読掛け、思はず知らず、ズル/\つと寝入つたのは、駕籠に乗つて山上参りしたやうな物、アハヽヽヽ』と、此「詞」と笑ひの六ケ敷さは、「腹」と「力」斗りの芸で、其訳は、心を止めて読んで見れば、直に其六ケ敷さが分るのである。此丈け聞けばモウ政太夫風の三段目が、語れて居るか、居ないかゞ分るものである。是から爺、媼の取遣りの詞、実に何とも云ヘぬ面白さが浮び出ねばならぬ。『ウム、如何にも、倅助一が出世を、譬へて見れば此鯔、総て魚と云ふ物は、生て居る中は益ない物、漁師の網に掛つて、命を取られてこそ、貴人高位に賞翫せらるゝ、是を魚の出世と云ふ、侍もまづ其通り、出刃庖丁の刃にかゝり、腹切つて煮らるゝか、首打落して膾にさるゝか、夫が武士の立身出世じや、アヽ倅助一は此魚にあやかつたかと、目に浮む、涙紛らし読さしの、本に年は寄まい物、目がかすんでとすりこする』とまで語つたら、太夫は泣かずとも、聴衆は皆泣く筈の勢力(*芸力)が、腹に必要であるのである。夫から倅弥太郎が来て、義貞を討つた物語りの「ノリ」から、其弥太郎が義貞の変装であつて、前にかくまつた、勾当の内侍は弥太郎の女房磯波で、又磯波と名乗つて来たのが、本当の勾当の内侍であつて、助一の憶病は贋物で、足利の忠臣、妻鹿孫三郎長宗である。夫が自害した女房の、おそねの首を切つて、勾当内侍の身代となし求女塚で、義貞の身代には已に弥太郎が立つて居て、其首に義貞が、天賜の、蘭奢待の名香で、焼香して弔ふと云ふ終りまで、息も吐けぬ修業の面白さである。