(三十八) 奥州安達ヶ原 四段目切 一ツ家の段

 此外題は宝暦十二年午の九月(大正十五年を距る百六十五年前)竹本座に上場し、作者は竹田和泉、近松半二、北窓後一、竹本三郎兵衛等で、役場は竹本政太夫であると思ふ。此段は三段目の所にも書いた通り、斯界節語りの泰斗大和掾が三段目を語り、四段目は政太夫が語つたが、全部三段目で喰はれて仕舞ひ、政太夫は帆影になつたので、後年更らに政太夫が此三段目を語つて、其風が今日残つて居るとの事。故に今日残つて居るのは三段目も四段目も政太夫風と思つて居ればよいと思ふ。此種の作は謡曲の黒塚、安達原、石の枕、等色々類似の物はあるが、此段は三段目で環の宮の御附用人鎌杖(*謙杖)が、宮を奪はれし落度にて禁庭より中納言教氏(貞任の贋物)が来つて切腹させ、其奪つた環の宮を貞任は奥州安達原の母岩手の許に送り、源氏追討の論旨(*綸旨)を受けんと思ひしが、其時より止声病にて其事叶はず、漢土耆婆が秘法の薬にて、胎児の生血を絞つて薦むれば全治するとの事より、旅人の妊婦を殺して、其胎児の血を取つたが、其妊婦は幼少の時、乳母に抱かれたる儘、戦乱の為め別れた、実の娘にて、其環の宮に附添ひ来りし乳人匣の内侍は其実、義家の末弟新羅三郎であつて、環の宮は義家の一子八ツ若で、全く替へ玉の宮様と乳人とが入込んで、其上に娘婿の生駒之助は義家の旧臣であつたので、強勇の岩手も四方八方の手違にて、夫頼時の鬱憤を晴す事も出来ず、貞任、宗任の子供に源氏に復讐さす事も出来ず、嬲り殺せし女は娘で、婿は敵の旧臣で、 一同取巻いて責め寄せるので、進退茲に谷まつて、腹を切つて死ぬと云ふ仕組である。筋は甚だ惨酷との評はあれども、奥州の夷でさへ、尚ほ追討の名義は天子の胤に依らねばならぬと云ふ、大義名分の道を示し、皆忠貞節義の筋に絡らんで書上げた物で、流石は三郎兵衛などの面影が見ゆるのである。況んや貞任が母に対する孝心をひらめかせ、日本武士道の本意を見せて、隠し置いたる宝剣は、弟宗任を義家が助けたる厚意に無条件にて返し、互ひに戦場にて勝負の雌雄を決するを以て、武士の帰結を宣言する等、筆端中々斡旋を尽したものである。之を語る人は長尾太夫が語つたとの事、其外は組太夫の語り方である、其他には一寸耳覚えがないのである。
 庵主は先年コンナ物を捨て置くは、斯道の為め勿体ないと思ひ、五代目鶴沢仲助に朱章を調べさせ、友人山科礼蔵氏の宅で語つたが、下地の下手の上に、物が重いので、甚だ困難を極めたのであつた。此時東京に来て居た豊沢富助、鶴沢清七の両絃師が楽屋に居て、廊下まで聞に来て居たが、其時の仲助の芸と云つたら驚く計りであつた。舞台を下りると、語つた庵主には両人一言の挨拶もせず、
「寛や(仲助は元寛三郎と云ふ旧友故元の名を呼ぶ)今日はドウしたんじや、豪らい勢いやナア」と云つた位であつた。夫かあらぬか其寛三郎の仲助は、其翌晩頓死をしたのであつた。其時仲助は斯く云つて居た、
「師匠寛治さんの南の連中さんの一ツ家を弾きやはつた時は、世界が全く違ふたやうに「ノリ地」と「ギン」の譜が豪かつたサカイ死んでもヱイワイと思つて、弾いて見たンじや」
と云つて居たが、何様其翌日頓死したので、仲助は一ツ家で弾死んだと、今でも評判して居るのである。
 扨て『跡には独り恋絹が』の「ハルフシ」は、尤も淋しく落付いて、メリ込むやうに語る事。 『空も物憂き旅の宿』は「中ブシ」で、只だ云つて仕舞ふ譜もあるが、矢張組太夫のやうに「本フシ」でジツクリ煮へるやうに語るがよいと思ふ。『ほんにまあ』からの恋絹の独り言は、腹に心持が出来ねば云はれぬ。今一人別に咄相手があるやうに咄の詞になつては大変である。夫は息が面白く遣へて、詞尻が下り加減になつて居たやうである。夫が割りに長い独言故、修業を要するのである。『それ者の果でもしどけなき』の「フシ」も矢張独言の気で語る事。夫から『次第に更る夜嵐の』から全く気を替へて『安達原の軒もる月』と云ふ時は、其「本ブシ」は「真ギン」の音の有丈けを出して一杯になつて眼も血走つて語る、此等が古浄瑠璃の素養がなければ徹底せぬ物である。又気を替へて恋絹の独言になる、今度は腹一杯恐わ気立つて語るとの事である。『後にすつくり白髪の婆々』と云ふ時は、満場がビツクリして呑まれて仕舞はねばならぬ。是で息をウンと詰めて『申/\コレ申と』はドウ云つたらよいか、読者よく考へ見るべしである。組太夫が『呼はる声に』と云つて、身を詰めて首を押出す間があつて『又恟り』と云つた時は、我々は全く芸ではない、事実じやと思つたのである。夫を押へて「イヤ』と云つて、 ニツト笑ひ腹があつて『こはい者じやない、主の婆々でござるわい』と語る、「詞間」と云つたら、画にも書かれぬと思つたので、此恋絹を殺すまでは、決して早くなつては物が破れて仕舞うのである。夫が中々力がなければ六かしい事である。『つい其腹を』と軽く云つて『たちわつて』がビツクリする気味で云ふ。「カブセ」て『オヽ/\オホ………』夫が又中々云へぬのである。『アーア、南無阿弥陀仏/\/\/\』が脇見をして云ふ気味で『唱ふる口は耳まで裂け、安達が原の黒塚に、こもれる鬼と云いつべし』のフシまで浄瑠璃離れのした恐ろしき腹力で語る事。ソコデ『恋絹有るにもあられぬ思ひ』とかわられるのである。古人の咄しに、義太夫節に「カワリ」のないのは義太夫節ではない。常盤津、清元までは「カワリ」が本となつて居ない、古浄瑠璃の修業は総て「カワリ」の修業である。夫が仮名切れが息で「ピシ/\」と切らねば、三味線も太夫も「カワリ」の芸は決してされぬものであるとの事。恋絹の口説は決して唱はぬ事。『斯くとは知らず生駒之助』以下の組太夫の運びと云つたら、全く天下一品と聞かれた。『指足してぞ忍び入る』は「ニシキ」の「フシ」に語る事。夫から『あいの襖を踏開けば』と息があり「合」があつて、『内は朱玉をのべたる御殿』となつて大変となり、此浄瑠璃の性根となるのである。全く政太夫風の「二」の「ギン」や「三上」「コハリ」等『かしづく有様に』と「中」で「ナヲス」所まで気を付けねば、『荒れし生駒も進みかね』と「カワラ」れぬのである。夫から岩手の物語りが又「カワリ」の一番六ケ敷所である。全く武士詞の中に老母の腹構へが肝要である。此から段切までは政太夫が天下の芸界を風靡したる「カワリ」計りにて終るのである。夫から『何とかしけん、器はばつたり谷底へ』と語る声の中に『俄かに渦巻水のあし清々滔々とわき上がれば』等、皆「コハリ」の音が大きく、高く、強く、 一杯に遣へねば駄目である。『岩手は無念の、じたんだ踏み』が今まで語つたのを打消す程の情が大きく透らねば下の詞が立たぬのである。ナゼなれば此段は恋絹で泣くやうに書いて無いのである。全く此恐ろしき岩手の婆さんで満場が泣くやうに仕組んである。夫は予ても云ふ通り、尼ケ崎は、光秀で泣くやうに。陣屋は、熊谷で泣くやうに。此段は岩手で泣くやうに書いてあるから、外の人形は皆、此主人にからむ脇連れである。夫を一番よく呑込んで語らねば、皆素読になる読み太夫である。夫で『夫の敵、国の仇子供に対して、功名させんと、我慢にこつて邪非道、人を人とも思はぬ天罰、忽ち報いて血を分けし、娘を親がなぶり殺し、嘸や苦し、かりつらん、地獄、蓄生(*畜生)、餓飢、修羅道、其苦みを身一つに請けし因果を断切て、冥途の旅で言訳せん、娘よ、孫よ、暫く待てと、突込剣口にくわへ、縁先より真逆様、落ちてはかなく為りにけり』と語つたら、是非とも満場の聴集を屹度泣かす覚へが付くまで、腹に修業が積まねば、斯かる四段目は語れぬものである。以下は気をしめて落合の積りで語れば夫でよいのであるとの事。