(三十七)安達ケ原(*奥州安達ケ原) 三段目切  袖萩祭文の段

 此段は宝暦十二年午九月(大正十五年を去る百六十五年前)竹本座にて上場したとの事である。作者は竹田和泉、近松半二、北窓後一、竹本三郎兵衛で、役場は竹本大和掾であると思ふ。此人は前にも云つた通り、斯界節語りの泰斗と崇められた人にて、此三段目を語つて、天下を風靡する程流行らせた人である。処が、此書下しの時、四段目の一つ家の段を、政太夫が語つて居つて、是も最上の出来ではあつたが、此三段目の派手なる音遣ひには及ばず、世の中には三段目計りが持て囃やされたので、政太夫は之を残念に思ひ、後年此三段目を又政太夫が語つた処が、是が又最上の出来であつて、現今世に語り囃やされて居るのは、皆此政太夫風であると聞く。又後年に至つて、故豊沢団平が、京都の鶴沢友二郎師の教へた風で、ドウカして此安達の三段目を、大和風として残して置きたい物と思ひ、苦心の結果、団平の晩年に至つて、堪念に朱章を改め、之を大隅太夫に教へて、一二回語らせたとの事である。庵主が往年から聞いたのは、故摂津大掾が若年の時より、度々語つたのも、大隅太夫が庵主に教へたのも、三代目越路太夫が語つたのも、皆此政太夫風の変化した斗りのものであるが、明治三十五年十一月、大阪の明楽座にて組太夫の語つたのと、七八年前、有楽座に於て鶴沢清六が弾いて、豊竹古靱太夫に語らせたのが、何でもアレガ即ち団平の改朱した大和風であるかと思つて聞いて居たのである。
 此段を語るには、大和風でも、政太夫風でも、何れも腹構へと、音遣ひの事が、十分腹に入らねば、物にならぬのである。又節廻しの事も、腹乗り、間乗り、詞乗り、地色崩しにも乗り気味があるが、夫には文章の意昧と、情合が、音にも、足取にも少しも離れては、品物にならぬのである。先づ、
 第一、枕文句の内でも『只さへ曇る雪空に』の一句は、此舞台の形状が、雪凍る冬であると云ふ事を心持に十分漂ふやうに語る事。
 第二、『心の闇の暮れ近く』は、第一に出て来る人形の、袖萩の心情が漂ふやう、心持を離してはならぬ。
 第三、『一間に直す白梅も』は、此環の宮の御殿に白梅と云ふ大問題が横はつて居ると云ふ腹込を忘れてはならぬ。
 第四、『身にこたゆるは血筋の縁』の一句は、袖萩の一身に纏はる、父母と娘との中に介在する切情に、泣き枯れて居る有様を、ユッタリと、「ギン」の裏に、音と廻して語り締めるのである。
 第五、夫から『不便やお袖はトボ/\と』になつては、チャント盲目の足取に手が付いて居るから足取をズンベラ、ノッペラと謳つては大変である。陰気に泣沈んだ足取を語らねばならぬ。
 第六、詞は所謂大和風にて、サラ/\とした中に情の深く籠るやうに、研究に/\を累ねゝばならぬ。
 第七、祭文の唄になつては、是も謳ふのではない、腹を〆めて泣いて、淋しく十分に乗つて語れば、其風になつて面白くなるのである。
 斯く云ひ来れば数限りはないが、先づコンナ風で修業に一心を傾けねば、此段には交渉が出来ぬのである。夫から一番注意せねばならぬのは、此段に作者の注意が欠けて居つて、骨抜きになつて居るのは、貞任の初めて出る処である。『神ならぬ障子押明け、立出る教氏』と云ふ、此処が此段中の性根所である。其腹の落付と、音遣ひが出来なかつたら、外の所がドンナに甘くても、語れては居らぬのである。夫から『手負を見届け』と云ふ『見届け』の下に、『懐中の一通奪取り』の八字を挿入して、『中納言』と「中」の音で語らねばならぬ。ナゼなれば此段の眼目は、環の宮のお守役の舅謙杖が貞任詮議の種の一通を持つて居る、夫に環の宮は、貞任が盗み出して置いて、其落度にて舅謙杖に腹を切らせ、其切口を検視する序に、彼の一通を盗み取事が眼目にて、贋せの教氏になつて、入込んで来て居るのである。其文章が抜けて居るから、全体の訳が分らぬやうになつて居るのである。
 兎も角グツト後に出る、貞任の品位と、一癖ある心持が漂ふ丈け語らねば、此段を語る努力は、全く無駄事であると心得ねばならぬ。又夫を語るまて聴集が保たねば、夫が矢張語れて居らぬのである。先づ大抵の事なら、斯る段は修業鍛練の上の後に語る事にしたい物である。