(三十六) 岸の姫松轡鑑 三段目切 飯原兵衛館の段

 此段は宝暦十二年閏年の四月(大正十五年を距る百五十六年前)豊竹座に上場し、作者は豊竹応律、若竹笛窮其他であると聞く。此段の役場は書き下しに誰かゞ宮戸風で語つたと聞いて居るから、調べて見ても中々分らぬが、矢張島太夫風で宜いと思ふ。勿論今の太夫共の語るのに、越太夫、即ち利斎節もあるとのことではあるが、矢張系図正しい島太夫で大きく、小刀細工でなく語らねばイカぬと思ふ。元来此作は二代目義太夫(播磨掾)が語つた、堀川夜討の三段目から転化して来た物で不味い事と云つたら此上もない作であるが、一寸珍らしい事には、物語りの共進会が出来て居る。之を腹に持つて上手に語りコナスことに心掛けねばならぬのである。出る人形も/\残らず物語りをするから、夫が其人/\の心行きと境遇との、品合を物語りあはせるとチャンと一段が纏る事になつて居る。夫が中々面倒で一寸外にはコンナ類はないのである。節付の方は大分甘い、余程の傑作であると思ふ。何でもブウ/\云つて手を入れる清水町の団平でも、二代目越路を弾く事になつた明治十一年の五月に、此段を出した時、団平が此岸姫丈には一撥も手を入れなかつたのである。夫から五日目に団平が越路に、「コンナものは勿体ないから大事に語んなはれや、私も一生懸命に弾升から」と注意したと大掾が咄して居た。
「何にせよ師匠(春太夫)が、古浄瑠璃の風て鍛ひ上げた修業に、此段が後先きにないと云ふ程の当り芸であつたのを両人共、夫を抜ける程聞いて知つて居升のに、其師匠が此前年死去られた其後直に私が同じ団平さんの絃で語り升ので厶り升から、舞台に上らぬ先から、腹はペチャペチャで厶いました、団平さんに稽古も仕て貰ひましたが、何分にも小男の小音で厶り升から、団平さんに「トン、ジャン/\/\」と弾れ升と「送り」で、モウ咽がピッタリと乾き着いて云へませぬ。此を思ひ升と、私共の門弟共の修業と云ふ物は、修業でも何でも厶りませぬ、豪い太夫さん計り弾き殺して来て生き残つた三味線弾きさんに弾かれ升修業は、常の修業の幾層倍で厶り升、明治六年に古靱さんが稲荷文楽に出られまして、師匠の前の切を語られます時、何様名人で厶り升から、浄瑠璃を〆めるに〆めて語られまして、お客さんが、モウ沢山、モウ叶はぬと云やはる程〆め上げて泣かされ升ので、私始め弟子供は「お客さんがコンナに成りやはつた跡に、内の師匠が出られてドウ仕やはるであらうか」と皆心配をして咄も仕ませず息を殺して居升と、其跡に内の師匠が知らん顔をして出られまして『跡に藤巻只だ一人』と云やはり升と、弟子一同がポーッと致しまして、古靱さんは二三日前に語りやはつたか知らぬと思ふ程、世界が違ひ升程の岸姫で厶りました、アノ一声はドウしても古浄瑠璃の風で鍛ふた修業でなければ出来ませぬ、只今では大隅が団平さんに丁寧に稽古をして貰ひまして、『跡に藤巻只一人』又『跡に娘は気もイソ/\』と申ます、アレが師匠春太夫の一本鑓で、娘であらうが、お姫様てあらうが、力一杯ブッ付けて出る、夫が紙三枚語る内には何とも無くて、当り前のやうに成りまして、お客様は遂に懐に入れられて仕舞うて居やはり升、夫が本当の浄瑠璃で厶り升。私は若い時から師匠に「貴様の様な小男で小音では兎ても一人前の太夫には成ぬから止めろ/\」と云れ通しで厶いましたから、段々清水町や松葉屋等とも相談を致し、工夫に工夫を致しまして、コンナ浄瑠璃に致しました。夫で私が十種香のお稽古を阿方に致しますのは、私が舞台で語り升のとは全く違ひ升。夫は古浄瑠璃で鍛ひ上られた日本一の大音の鐘太夫さんの風で、即ち師匠が語られた風で厶い升。今大隅が語り升のも可哀そうに、時節がソンナ風を知りませぬから、お客さんが聞いてくりやはりませぬ。浄瑠璃と云ふ物は、訳がお分りに成ましたら、和らかに構へた体中の力を有る丈出す物で厶い升。夫が嫌なら外の芸をお稽古になるが宜ふ厶い升。夫で阿方は私の申事も、大隅の語り升風も克くお腹にお入れにならねば浄瑠璃を聞分ける事は出来ませぬぞ」
と大掾が懇ろな教訓であつたのである。此丈の咄しを聞かされた翌晩から、二分位の調子で此岸姫を聞かされたのである。庵主は斯る尊き稽古を碌々に覚えても居らぬが、何にせよ、美音大達者と世に謳はれた島太夫、即ち二代目若太夫の語つた風とすれば、ヘナチョヨ太夫では一寸都合が悪いのである。
第一、『跡に藤巻只だ一人』此の『ヒトーヲリ』と云つて居る内に、何とも云へぬ情が浮いて来ねばならぬ。夫の訳が分らねば浮いて来ぬのである。夫兵衛に娘を身代りの為めに、殺せと云はれた跡の藤巻である。其心を浮かすのである。夫でお客が其情で皆捕まるのである。
第二、『司姫』と云ふ「ハルフシ」は出来る丈けブッ付けて廻して居る中に、決して「二」の音に下つてはならぬ。其の廻して居る中に、藤巻が腹の心配の気が浮かねばならぬ。夫から一大事は腹の恐気から出る音である。夫から「ジャン」と〆める、夫が庵主の聞いた多くの「ジャン」は大掾から聞いた「ジャン」は一つも無い。ナゼならば『我子を切って身代り』と息から走つて語らねばならぬ「ジャン」であるからである。
第三、『末代家の』後の「テンツン」が又碌な「テンツン」が無い。ナゼならば『去りながら』と心持が変らねばならぬ起の「テンツン」であるからである。
第四、総て変りの弾ける三味線弾でなければ此枕は駄目である。『マダたんまりと顔形、見覚える間も、有る事か』「卜ン/\/\ジャン」と〆るのに、大掾が二本の指で火鉢の縁を叩いて居るのに、庵主が直に『来ると其日に身代りとは』と詞を云つたら、大掾満身の力の抜けた様な顔をして、
「旦那はん見ななれ、私の指は此通り真赤になる程叩いて居り升ゼ、其詞を藤巻に云はせる為め今まで艱難して、枕を語りなはつたではおまへんか、貴君の息の根が止まる様にと思ふて「ジャン」と指が赤うなる程〆めて居るのではおまへんか、夫でグウと息を詰めて藤巻は身も世もあられぬ程の情ない心を絞つて、モウ涙一杯の息の間で『来ると其日に身代りとは』と云うて貰はぬ事には指を赤うした甲斐がおまへんがな」
と云はれた時には庵主も、
「アーア、俺は外の事でも此程の馬鹿で有らうか知らんと思つたのである」
第五、以下は総て此通りに注意して稽古をせねば物に成らぬと思ふ。夫から御詠歌の与茂作の声は総て離れた音で、近江の湖て謳ふ船唱の声の積りで謳へと聞いて居る。
兎も角各人各箇の物語りを其人の人格と境遇との情合の浮くやうに語り分けるのである。