此外題は、祇園女御九重錦と称して、宝暦十年辰十二月(大正十五年を距る百六十七年前)豊竹座に上場せし物と聞く、作者は若竹笛躬、中邑阿契の二人であるとの事。此三段目は書下ろしには巴太夫が語つたと聞いて居るが、一向其風も見出されぬのである。其後綱太夫が語り、又麓太夫は語り方床本に、大増補大改良を加へて語つたとも聞いて居るが、庵主は矢張麓風が一番大勢力を残して居るように思ふ。何様語り崩しに崩して居るから、此段の研鑚には中々手が要つたのである。即ち作は此如く無茶苦茶で、暖国の紀州に大雪、其雪の中に大根、蕪、独活、山葵がある、其雪中に青柳の葉が散つて来るなど、大分マゴ付いて居るが、三味線の朱と、語り方には大分力が這入つて居る。コンナふわ/\した夢幻劇にコウは力が行届かぬ物である。
第一、(丸本に因らず床本の通りに因る)、『夢や結ぶらん』の送りは、シッカリ麓場に「ニジツタギン」で語る事。
第二、総て「ギン」の音に注意して語らねば、品が悪るくなるは勿論であるが、「ハリキリ」の音が又大事である。『信田の古巣』の『信田』を訛らぬよふに「ハリキリ」の音で語る事。此は此段に限らず、十種香の段の『絵には書せはせぬ物を』の『せぬ』の二字が世間皆訛つて居る。此を「ハリキリ」の音で語るべきは斯道全体の掟とも云へるとの事である。
第三、此お柳の詞が一番六ケ敷い。此は、躄の初花の如く、人間の幽霊でもなく、又、葛の葉の如く、狐の化身でもなく、非常の草木の精であつて、其情愛の正純なる事、悲哀無比である。此情は無情の草木でさへ、斯くの如し、況んや人間に於てをやと云ふ事を、語り生かす事に、昔からドンナ太夫でも難義して居るやうである。
第四、故に総て腹を〆め、息を持つて、サラ/\フワ/\と語つて、決して泣いてはならぬ。又決して息遣ひを拵へてはならぬと云ふ土台が修業でチヤンと極まらればならぬ。
第五、『心の鬼の和田四郎』からは只の義太夫節に気を付けて語れば宜い。
第六、木遣音頭が此作の上出来であるが、其音頭が決して絃に尾いてはならぬ。スツカリ離れて賑かに遠い声で語らねばならぬと聞いて居る。後の平太郎の音頭は皆、音の下る処を「ウレイ」の譜に持つて来て宜い。
庵主が聞いた手控への本を調べて見ると、明治二十四年の六月に、故摂津大掾(二代目越路太夫)が語つた時は、庵主聞分くる力も無かつたが、只だ何も蚊も、声に任せて振り廻して語つて居たようである。其時聞いた五行本の表紙に、庵主の評が書いてある。曰く、「お柳尚ほ妖艶にして、平太郎に貧窶の情なし、盗賊の和田四郎も説諭したらば改心仕そふである」と、考へて見ると、其頃の越路の語り方が分るよふである。其後九年目明治三十二年の八月に、(**明治32年9月)此段を聞いた時は、此大掾が斯道に目覚めて、凝りに凝つて、調べに調べて勉強して居た時であつたから、全く別人の様に恐ろしい程面白く聞得た。此時の本には斯ふ評が書いてある。曰く「お柳の物凄い生別の気満ちて、平太郎の境遇に同情した。和田四郎は真に無慈悲な悪るい武士に聞えて一杯に充満し、遂に人形を見る事を忘れた」と、一体此頃の大掾は其四月に、重の井子別れを聞いて、真に大和掾の風はコンナ物かと驚く程面白く。其六月に、彦山の九ッ目で、又其勉強に驚き。其十月には、伊勢物語りの春日村で、咽喉を刺さゝれた程深刻に感服したのであつた。庵主は大掾が此頃の勉強は忘れよふと思つても、忘れられぬ程の努力で、少しも不謹慎な語り方は無かつたと思ふ。其後三代目越路太夫が此三段目お柳子別れを語つたのを聞いた事があるが、何様前に聞いたのを頭に持つて居たので、此頃の三代目は何に凝つて居たか知らぬが、丸で餅の無い汁粉を食ふやうに、この太夫、末はドウ成るであらうかと餡汁(案じる)斗りであつた。何様人気のある太夫は、皆慢心が先に立つ物で、慢心するからアンナ事に成るのである。ドウ語つても、何を云つても、人に誉めて貰へると云ふのが芸道の一番毒である。庵主は此三代目が子供上りの時からの贔屓であるから、常にソウ咄をする。
「お前の今の年頃の二代目(大掾)と比較して見ると、慥かに師匠よりも芸は動いて居る、即ち語れて居る、然るに大掾は此頃までは自分の声の特徴を利用して渡世を仕て居たから、浄瑠璃其物は比較的語れて居なかつたが、此明治三十一二年頃からグツと芸道に勉強を初めた事は事実である。夫がアノ力とアノ修業とで凝つたので有つたから一足/\に履んだ処には足形が煮へ込む程痕が残つたのである、お前も大掾同様に目を覚まして凝つたら、声柄と云ひ天賦と云ひ、慥かに大掾以上に渋味が着くと思ふ。(**」)
と云つたが、不幸にして早世し、終に黄泉の人となつたから、此の太夫の自覚的捲土重来を見る事が出来なかつたのである。